ビデオ進化論からyoutubeまで

これは1986年の秋に放映されたものではないかと思う。フジテレビで放映されたもの。この日の出来事を朧ろ気ながら、僕は覚えている。新聞で深夜番組の欄に浅田彰の名前をみつけ、夜には絶対これを見ようと思っていたのだが、その日の日中は・・・たしかいつものように吉祥寺まで自転車で出かけ、いつもの安いカフェ、もう今は無くなってしまった店に入り、店の二階で勉強し、パルコの本屋で本を眺め、場合によっては自転車で武蔵野市の図書館にも寄ったかもしれない−その図書館は今でも同じ場所にあるが、建物はすべて入れ替わり新しい輝くような図書館に生まれ変わっているが、その頃は以前のコンクリートの壁がむき出しになってる灰色の懐かしい建物だった−、たぶんいい天気だったので昼のうちに沢山動き回り、僕は三鷹の奥、ICUの裏手にアパートを借りて住んでいた。いつものようにそこから自転車で更に下り、多磨霊園駅の前に住んでいた高校時代の先輩のアパートまで遊びにいっていたかもしれない。そしていつものように、野川公園でサッカーボールかラグビーのボールを蹴っていたかもしれない。夜になった頃には、自分のアパートでもう僕は心地よく疲労していて、テレビはフジテレビのチャンネルでずっとつけ放しにされてはいたものの、当のお目当ての番組−ビデオ進化論はもう終わりに差し掛かっており、何度か浅田彰の回転数の速い喋り声に気づき、起きて見なきゃとは思ったものの、心地よい睡眠からベッドの中で勝てず、気が付いた頃には、当時の14型テレビ−受像機の上には屋内アンテナをつけて受信していた−の中では、浅田彰がタクシーの中で喋りながら、夜の東京の高速道路を走っているという番組終盤シーンだけを目撃したまでだった。・・・こうして浅田彰の発見が、僕の中ではまた一年くらい遅れることになったのだが、そんな記憶が残っている。

浅田彰が『構造と力』を出版したのは1983年であり、僕は高校三年だった。当時、既に本はベストセラーになり、浅田彰の名前はよく耳にもされていた。しかし僕のいた環境では、浅田彰というのは読んではいけない本だと云われていたのだ。なんだかよくわからず、哲学書というものはどう読んだらいいものか、まださっぱりわからなかった僕にとって、云われたままに敬遠することになってしまった。単純に僕はそれで、これは現代的なブルジョワ哲学の一種なのだと思ってしまったのだろう。情報的に歪な環境、開かれ損ねていて情報の循環がうまく閉じられてしまう、円環的な環境の自足性とは今となって振り返れば恐ろしいものである。代わりに僕のいた環境でよく読まれていた本、推奨されていたものとは、ドイツイデオロギーであり、坂口安吾であり、大江健三郎であり、イーリッヒ・フロムであり、サルトルであり、こぶし書房の本であり、・・・という感じだったのだ。僕はかくして十代の時期に浅田彰の本と出会える機会を失ってしまった。浪人などしていたので忙しかったというのもあるし。時々僕はそのことを悔やんでいる。もっと早く彼の本と接続できていれば、もっと救われていたのではないか?とか。浅田彰という人物が正統なマルクス主義者であることにも気が付いていなかった。実際、80年代の当時にとって、彼のパブリックなイメージとはよくなかったという事もあっただろう。

86年のビデオ進化論の中で、既に浅田彰は今あるインターネット的状況の到来を予測して語っているのがよくわかる。情報がマスメディアに独占されているという状況とは、別に普遍的でもなければ決定的なものでもない。情報を自己確認する技術的な変遷として、鏡の時代がヘーゲルのもの−自己意識的なものとすれば、写真の時代とはフロイト的な無意識のものである。次に来るべき段階とは、意識と無意識がともに分かちがたいものとして表層的に投げ出されたまま流動を続けるという動態的な有様を人々は目撃することになる。

今から20年前に為された予言である。それが深夜に東京の高速道路を走り去るタクシーの中から語られている。情報が進化する過程を、ビデオという媒体が進化する過程になぞらえて考える。マスメディア−特にテレビのような媒体の存在条件が、平均化された大衆的個人というものである。同質的なイメージの洪水の中で、それは巨大な電子の子宮となって、差異や矛盾を柔らかく中和させ見えなくしていくシステムであり、危険な事態でもある。それに対して、差異や矛盾を突出させていく、多様な交通を作り出していく。今のようなマスメディアは果たして必要とされているものなのだろうか?むしろ異質な声の呼び交わす、分散的なメディア網の局所的な中枢点へ、発展的に解消されていくべきものではないか。そのためには、多様なマイナーメディアの実験が必要とされていることは言うまでもない。家庭用ビデオデッキの所有が増えていくのになぞらえて、情報交換の多様性の到来を語っていた。いつの日か、テレビ局が電話網の交換台のようになる日を夢見ることができるだろう。メディアの分散性を介して、情報の交換とはいとも簡単に私的に為されうる、気軽に作られた情報が簡単に交換される・・・TV evolutionによって素描されたイメージとは、まさに今、我々がこうして使っているインターネットのイメージを予測している。(実際86年にはもう初期型のインターネットはアメリカで登場していたはずだと思う。あるいはパソコン通信はもう使われていた。)この番組の中で浅田彰が予見している情報交換のイメージとは、youtubeの到来した段階では、まさに実現されているものといえる。テレビ局が電話網の交換台のようになるとは、今で言うサーバーコンピューターのことである。

かつてガタリやアウトノミア派がやっていた、そして粉川哲夫などによって日本にも持ち込まれた自由ラジオというのがあった。浅田彰がどのようなイメージを前提にして、ビデオ進化論的な情報交換の解放、マイナーメディアの分散的多様化について語っていたのかは、よくわからない。しかし当時のレベルでは、情報のアナーキズムとはそうしたムーブメントぐらいのもので具体的には少なかった。あとはパソコン通信だが、最初のパソコン通信の段階から(ワープロを使ってパソコン通信が出来た)よく考えれば現在のビデオ交換−youtube的段階まで、論理的で先験的な予測は可能といえば可能であったはずだ。自由ラジオというのは、街の中でFM電波を勝手に発信し、海賊放送をはじめるというものである。かつては下北沢などで、そのような事もやられていた。80年代のことである。もちろん電波の届く距離は限られており、持続性はなかったのだが。自主ラジオも自主テレビ局も、インターネットの中では今や常識的に気軽にはじめられるようになっている。