mixi戦争

  • mixiというアーキテクチャは、2006年のインターネット界を賑わしていた。mixiというソーシャルネットワーキングのシステムは独自の増殖を遂げる。mixiはインターネットを変えただろうか、またmixiがもたらしたwebの構造とは何だったのか。webは確かに進化している。ここ10年近くのうちに起きたweb上の構造論的な変化のことを指して、web1.0から2.0への進化だと考えられている。
  • web上における行為の基本形態を考えてみよう。まず、見ること。(そして、読むことである。)それは、純粋に見ることから、斜めに見ること、また盗み見ること、など。そして次に、書くことである。見ることと、書くこと。これがweb的行為の主だった二つの位相と云う事になるだろうか。webの現在上の段階では。そこでは、話すこと、聞くこと、などは副次的な行為に留まっている。また他にも、投票すること、買うこと、売ること、などの行為論的な形式がweb的行為には含まれる。
  • mixiが一個のアーキテクチャ、一個のスタイルとして出来上がり登場してきた背景には、まずインターネット上の荒れという状態が前提になっている。あらゆる社会体、現実的な社会体にとって、それが進化する条件とは何かということを考えてみる。基本的に、それは荒れること、具体的には、犯罪が止まらなくなり、悪が横行することによって、その社会構造に人々が一定の疲弊を経ることによって、いかなる社会体でも構造論的な進化の必然性が生じることになる。もし悪がなかったら、人間の社会に犯罪というものが発生しないという「理想的な」状態が貫かれうるなら、そもそも技術自体が発明されなかったのである。なぜ人は外出するときに、家に鍵をかけるのか?泥棒に入られる可能性があるからである。誰も、日常的には、慣習的には、人が家を空ける際に家に鍵をかけることを咎めるものはいないだろう。鍵をかけないほうがむしろ異常視される。もし社会に泥棒が発生しなかったら、そもそも鍵を作る技術自体が発明されないし、技術的なセキュリティも全く発明されなかったことになる。*1現実的にそこに発生する悪と犯罪の形態を前提にしてのみ、社会体とは進化するのだ。これは社会の物理的な必然性であり、現実である。善意という人間的心情や道徳的内面の持ち方によって、物理的な構造変化として社会進化が起きるというのは考えにくい。というか、物理的必然性の要因からいえば、残念ながらそういうことは起こり得ないものであるということにもなる。社会が構造的に変動を来たすモメントとは、社会体自体が、ある危機の意識に真剣に目覚めることによって、実際に物理的にそれは動き出す、あるいは逃走を開始する。社会体が進化するための逃走運動である。*2
  • mixiのストラクチャーが要請しているのは、利用者の側からの自主的な抑制である。このストラクチャーの基本になっている骨子とは、他人のサイトを見れば足跡がつくということにある。どの程度まで視線を許せるかというのは、他人との間の暗黙の相互交渉によるものである。あくまでもこの駆け引きは暗黙である、決して明文化できない、内的で微妙な掟がそこには必ず機能する、この沈黙の駆け引き−視線の交換行為を通じて、他人との間に信用形成がなされることになるのだ。これはインターネットという仮想的で平面的な社会体構成の中で、現実的で日常的な人間関係のコミュニケーションの慣習を持ち込む構造を導いた。現実的な日常性、空間性において、我々は暗黙の合意形成、沈黙と間の交換、駆け引きを通じて、コミュニケーションの微妙な安定性を作り出している。この暗黙の拘束性に耐えられないで、そこの空気から外れてしまえば、自然とネット上の信用関係からははみ出てしまい、ルールが守れないとして淘汰を受けることになる。具体的にはidをアクセスブロックにかけうる。強制手段としてのブロック以外では、ここのコミュニケーションの作法とはみな、自己抑制の原理として機能する、暗黙性のWEB的な置き換えなのだ。足跡の機能とアクセスブロックの機能はmixiの構造を支えている。
  • インターネットの中でmixiの前にあったものとは2ちゃんねるである。2ちゃんねる的な荒廃に疲れていた人々は多い。2ちゃんねるに限らず、ネットのリテラシー、ルールを定めることが難しい不安定な、剥き出しのwebの構造は、人々を親密なコミュニケーションを求める営みから疎遠にしていた。この荒廃を破棄して、親密圏としてのwebを確実にする試みとして、mixiアーキテクチャとはスタートしたのだといってよい。mixiが発足したのは04年である。僕がはじめて加わったのも04年である。しかし、mixiの構造にしても、やはり独自の仕方で事件というのは起こりうるものだというのも明らかになってきた。mixiの荒れは他ほど酷くはないにしても、やはり荒れは起こりうる。そこで妄想が発生しやすい、遣り切れなさや後味の悪さが残るというのも、やはりmixi独特の構造によるものである。

*1:重要なのは、鍵をかけないで外出する社会というのが、別に理想的でもなんでもないということなのだ。(確かに今でも田舎に行けば、村の多くの家が鍵をかける習慣がないような牧歌的な村が残ってるのを見受けることも出来る。)NY市の現状のように、鍵を過剰に何重にもかけてしまう社会にもある種の生き難さはあるのだろうが、全く鍵をかけないような社会というのも、それは社会の条件からすれば外れているのだろうし、奇妙な状態である。もしNYがその過剰性によって本当に生き辛い街だったならば、そもそもNYを求めて人が集まってくることもなく、人気もなくなるはずである。しかしNYはその危険性を前提にした上でも、それでも人々に自由の希望を与える街として圧倒的な人気を得ているのだ。

*2:一個の種が次の生物体系に進化する条件とは、生存の危機を細胞のレベルで深刻に受け止めることである。つまりそれは、危機そのものであって、決して危機の内面化ではない。これは、あくまでも無意識的なレベルで深刻な恐怖を生命体が感知していることであって、これが人間的なレベルで集団的な意識=共同的な幻想としてのセキュリティの意識、プロパガンダになって社会体を統御する(コントロール)というのとは、また別の話であることには注意をしておきたい。意識としてのセキュリティ、幻想としてのセキュリティとは、生命体に細胞構成のレベルでの逃走を強いる、生態危機の感知とは、全く別のレベルで起こっている、人間の社会体に特有の反動的幻想の体系だからである。ここを決して混同するべきではない。生物にとって、そしてその生物が作り出す生態系としての社会体にとって、危機と意識の関係とは本質的なものである。しかしそこに人間的意識の屈折がバウンドとして跳ね返った時には、物象化された体系としての集団幻想が起きている。その共同的幻想の仕組みとは、変革的というよりも反動的になる。