DGの『いかにして器官なき身体を獲得するか?』

欲望が裏切られ、呪われ、その内在野からもぎとられるたびに、そこには僧侶が姿を現わす。僧侶は欲望に三重の呪いを投げかける。否定的な法則の呪い、外在的な規則の呪い、超越的な理想の呪いの三つである。北へと向きながら、僧侶はとなえた。欲望とは欠如である。・・・僧侶は去勢と名づけられる最初の犠牲をおこない、北方の男女はみなこぞって、「欠如、欠如、それがみんなの掟」と叫んだ。さらに南方を向いて、僧侶は、欲望を快楽に結びつけた。それからまた僧侶は東方に向けて叫ぶ。悦楽は不可能である。・・・なぜなら理想とはこうしたもの、まさに不可能なものの中にあり、「生とは歓びを欠いていること」なのだ。・・・僧侶は西方にだけは向かわなかった。西方は存立平面で満ちていることはわかっていたが、この方角には出口がなく、人の姿も見えず、ヘラクレスの柱でふさがっているのを知っていたからだ。実はここにこそ欲望がひそんでいた。

  • DGがミル・プラトーの中でマゾヒズムについて語っている。器官なき身体(Corps sans Organes=CsO)という条件においてDGは欲望の形成条件を見ている。欲望がエロスの強度を志向している。それは時に身体を貫くことを望んでいる。マゾヒズム麻薬中毒はその状態を欲している。しかしマゾヒズム麻薬中毒に頼らずとも、人はそれを実現することも出来るのだと云う事もDGは示している。『結局、麻薬を使わないでトリップすること。ヘンリー・ミラーの実験のように、ただの水で酔っぱらうこと。』別にDGはフロイトと異なり、マゾヒズムをそれ自体では危険な事態とは考えていない。
  • ここに空っぽで、癌にかかった身体が投げ出されている。CsOとは、身体が器官にうんざりし、器官を放棄したがっているか、それとも失ってしまうこときに、もう始動している。ヒポコンデリーの身体、パラノイアの身体、分裂症の身体、麻薬中毒の身体、マゾヒストの身体である。『苦痛の観点からだけ見ると、マゾヒズムは決してよく理解できない。それは何よりもまずCsOにかかわる事柄なのだ。』
  • CsOとは純粋な強度に関わる事柄で、幻想とは関係がないということをDGは示している。幻想とは意味性と主体化の集合である。マゾヒストはマゾヒスト特有の幻想−ファンタスムを持っている。しかしそれを幻想と解釈すべきではないとDGは言う。幻想とは所詮解釈の問題にしかならず、それは現実を捉え損ねる。それはマゾヒストにとって、幻想というよりもプログラムなのだ。そして、幻想が解釈のための解釈にすぎず、結局幻想自体の厳守というところにしか帰着しないのに対し、プログラムとは、実験の促進なのである。
  • CsOは、器官organeに対立するのではなく、有機体organizationと呼ばれる器官の組織化に対立するものである。

身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。

  • DGが事あるごとに示しているのは、有機体を否定して、脱有機的な連携を求めるという志向である。DGのこういう言い方はどのような事態を示しているものなのだろうか?
  • organizeよりもunorganizeという指標によって物事を解決しようとする。あらゆる有機体化(=組織化)の中に内在するのが、死の欲動であることを理解している。しかし死の欲動とは、「忍耐」の力によって我慢し、隠蔽しながら事は運ばれるべきなのだろうか。運動における自然として。
  • 普通、社会運動といえば、オルグをするもの、オルグを拡大するものと思われている。確かに社会運動の現場という側面において考える限り、このオルグすることの行為の形式としての絶対性とは別に変わりようがないだろう。*1そしてDGの想定している現場とは、社会運動というよりも、もっと精神的な作用や内在的な思考の働きとしての、organizeという次元を見るべきものである。社会運動というよりも、単に運動という現象一般の事を、抽象的に、物理的に、原理論的に考えている。それは本来、有機主義的であるというよりも、非有機的な営みでなけれれば、そこにある自然の働きを解放できないといっているのだ。これは言葉の用法の問題であるのだが、有機体内における内在的な自助的な力とは、上からの組織化、意識的な組織化の試みには対立するしかないということを言っている。*2
  • 我々は自己組織化という概念を、別の場面ではよく用いるが、DGのターミノロジーでいえば、本来の自己組織化とは、内在的なものであり、それを発揮するためには、そこを上から組織化するような圧力を退けなければならない、純粋な自助力でもって、それが動き出すようにしなければならない、それが真の自己組織であり、それがどのようなアレンジメントを取るのかは、意識的というよりも無意識的な運動(分子的なブラウン運動)となる、ということを言ってるのであろう。それは単に上からの組織化というだけでなく、意識の立場、自覚の立場の優位性というのが、一切不可能であるような意味での、組織化である。下から組織化するという積もりでも、やはり意識の立場から運動の現象を統握しうると考えれていれば、それは誤っている、意識によって誤りうるのである。最小限の研ぎ澄まされた探索する意識とは、それによって無意識を見ようとするものであり、そこに委ねるものである。
  • この有機体、意味性、主体化というものを総じて、DGは地層化と呼んでいる。マゾヒズムやジャンキー(麻薬中毒)が求めている衝動とは、これら地層化から脱出する欲動の傾向である。そして欲動がそういう衝動を持つこと自体は、ある危機に瀕した身体にとっては必要な取り分、正当な欲動として生じている。しかしそれはそのままなら死の欲動である。

*1:社会運動の現場で、オルグすることから、他者をマインドコントロールや洗脳することによって運動に引き込もうとする、ありがちな傾向の自己批判、自己警告として読まれるのなら、それは社会運動の基本理論としての意味も持つだろう。働きかけ、を巡る間違いの指摘、人と人との交流からアソシエーションを巡る経済的な距離の置き方の問題として提起される。DGの意図としては、社会運動から運動原理一般まで、それらを総体的に判断しうるキー概念として、やはりunorganize 非有機的という在り方を唱えている。

*2:オルガニック・フード=organic foodという言葉の意味を考えてみよう。日本語では普通、有機食物と訳されている。有機農法や有機野菜のことを指してorganicといわれているのだが、しかしこれはDGのターミノロジーからいえば、器官的野菜と謂われるべきものであるということになる。この時使われるorganicとはDG的に謂えば、有機的ではなく、器官的である。DGの示しているのは、身体corpusと器官organの次元が別々に存在しているということであって、身体には身体の自律性があり、器官には器官の自律性があるということである。またそれはこうもいえるだろう。身体には身体の次元でのナルシズム(的内在性)があり、器官には器官のナルシズムがあり、それらは別の次元で存在するのだと。organicという言葉が一般に使用される場合、それによって器官的という内容のことを指すのか、あるいは有機体的ということを指すのかというのは、DG以後は分けて、注意深く使われる必要が生じるのだろう。DGの語彙に特殊な事態であるということもあるのだが、DGにとっては有機的とは、人工的、人間的想像の範疇であり、本当は自然のもの(=無意識のもの)ではないということになるが、有機的が一般的に使われる場合、それだけで自然回帰的意味で使われている場合が多いのだ。