プルードンを愚痴るマルクスの姿って?

  • 最近また急速に、マルクスを沢山読んでいるのだが。僕が前にマルクスを読んでいたのは、もう昔のことで、22歳くらいの時期まで僕はよくマルクスを読んでいたはずである。マルクスを読むと言っても、それをどのように読むのかが問題なのである。最近になってようやく、僕はその読み方が見えてきたという気がしているのである。問題は、哲学史におけるマルクス、認識の歴史におけるマルクスの位置を明らかにすることにある。マルクスを聖書のように読む憐れな人も、僕は結構見てきたが、ああいうのは結果的なトラウマしかもたらさないわけだから。
  • ICUという東京の市街地中にある僻地の中で(三鷹エルサレムとか綽名される)、十代の頃、高校生の時分に偏った環境の中ではじめてマルクスというのを読んだ−周囲の環境との関係によって、どうしようもなく逃げ道がなく読まされたのだが−それは経哲草稿だった。しかし、『経済学哲学草稿』−いわゆる初期マルクスと云われている代表的なテキストだが、はっきりいってこんなの高校生にまず分かるはずないわけ。出てくる概念は、労賃、地代、資本、利潤、疎外された労働、といったものだが、僕は十七歳の頃に、これらと直面しておかしくなったのだろう、とは今になってやっぱり思うわけ。昔に読んだこれらの概念を、今になって改めて、新しい岩波文庫を買い直して読んでみると、これが面白い、とてもよくわかるので吃驚するのだが、高校生に、労賃とか資本とか疎外された労働とかいってみたところで全く無意味だというのははっきりしてるわけだ。分かるはずのないものを分かるような顔していい気になる奴というのも必ずいたのだが。ずっと時間がたってから今、これらマルクスの著作、マルクスの提出した概念と向き合ってみると、やっぱり物凄くよくわかるので驚く。労賃も資本構成も利潤率も、みんなそのまま、ちゃんと理解できるわけ、現実の基本構成要因として、経験的に、実感的にも。しかしそれは別にマルクスの示しているロジックや結論が正しいというのでは全くなく、ああ、マルクスというのはこういう突飛な発想の転換をやった人なんだなと、歴史的な事実として把握し直せるというものなのだ。
  • しかしマルクス自身が打ち出していた立場とは、あくまでもアナーキズムではなくコミュニズムである。ここは確認しておくべきである。何故ならアナーキズムというとき、例えばオウム真理教やアルカイーダのような集団的自存性も、やはりあれもアナーキズムの一部であるということになってしまう。新しき農村的な自立性から、更にはカルト宗教の一団などまで、アナーキズム運動の一部であり、彼らの自立性の故に、そこの内部で起きるような事件には外から介入できないと云う事になってしまう。プルードン主義をはじめ当時からアナーキズムの実態がそのようなものであったという事実はあるわけで、マルクス自身はもっと普遍主義を行使できる立場から、アナーキズムの未熟性を打ち砕ける立場として、コミュニズムという普遍性から客観主義に依拠する運動性を考えていたのだといえる。*1つまりマルクスは、今の世の中でもよく見られるようなアナーキズム的な島宇宙の散在について、快くは思っていなかったのだ。もっと客観主義を徹底して貫ける立場としてのコミュニズムを構想していた。マルクスの基本は、オウムだとかアルカイーダとかカルトだとかセクトだとかいったものを全く認めていないのだ。しかしマルクスのそのような傾向が、実際に他者集団に対する「倫理的介入」として機能するときは、コミュニズムを自称する立場の国家的な権力によって為されるしかなくなったのであり、国家的な暴力の強化を招かざる得なかったという結論があるのだ。*2
  • それで今日は『哲学の貧困』を読んでいたわけなのだが。この本で最後の部分にマルクスが述べている台詞がちょっと興味をそそるので引用しよう。

社会運動は政治運動を拒否する、と言ってはならない。政治運動であって同時に社会運動でないものは、絶対に存在しない。

諸階級と階級対立がもはや存在しない事態においてのみ、社会的進化は政治的革命であることをやめるであろう。そのときまでは、つまり、社会のあらゆる全般的変革の前夜にあっては、社会科学の最後のことばは、つねに、次の一句に尽きるであろう。

 「戦いか、死か、血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている。」 ジョルジュ・サンド

  • 最後のジョルジュ・サンドの引用は、若きマルクスの逆上せたアホ発言としても。・・・妙に、その前にある一文については、逆説的に、社会の真、現在の真を言い表しているような気がするのだ。あくまでも逆説的にである。『諸階級と階級対立がもはや存在しない事態においてのみ、社会的進化は政治的革命であることをやめるであろう』という、マルクスの認識である。それではマルクスの死後、もう百三十年くらい経っている世の中の現実であるが、この言葉はどの程度の真理を含んでいたといえるだろうか、そこを検討してみよう。
  • 社会的進化は、マルクスの予言を離れた現実の社会史において、実際にはどのように現れたものだったろうか。我々の社会を今日に至るまで、「社会的進化」に導いた要因とは、基本的にはテクノロジーの進化であったといえよう。技術的な進化、それもまた何処までも物質的で物理的な要因のことであり、唯物論的な要因であったには変わりないのだが、テクノロジーを自然発生的に何処かで発明するとともに、それが社会的伝播の波に乗り、主に資本主義的な動因により利益と貨幣経済のグローバルな浸透として、単なる国家を超えた自然運動として現れたのだが、テクノロジーが先行して進化することによって物質的生活とその消費生活をベースにして社会構造というのは進化してきたのだといえよう。つまり、現実の社会進化の要因とは、技術的な進歩によるものだったという事実を明らかに見ることができる。それは政治的革命が導いたのではない。むしろ逆に、技術的進歩こそが、後追いとして政治的な変化も社会に必然化させてきたのだ。
  • 社会運動の観点から見てみよう。社会運動と政治運動とは別に一致もしていない。今でも一致しているわけではないし、昔からそうだった。マルクスが言う、政治運動を拒否するような社会運動のスタイルであっても、普通に今でもよく見られる。社会運動は別に政治運動とは独立していても確かに近代史上、機能はしたものであり、社会運動もやはり技術的な側面と結びついたときに、単なる道徳的要請運動や心理的な内面刷新運動(=宗教的なもの)ではなく、具体的に社会構造に変化を与えてきた。
  • だから、現在到達している社会の水準とは、まさに社会的進化が政治革命であることをやめている状態といえるだろうか。ということはそれが同時に、『諸階級と階級対立とがもはや存在していない』状態ということをも意味できるのだろうか?このポイントは微妙である。階級もやはり残っている。階級はありながらも、努力と運によっては、上位の階級に参入できる自由は開かれていて、融通もあり流動性もあるのだから、これで自然に社会の階級対立の問題は止揚されているのだということになる。つまり階級はあっても、それは別に対立していないという状態なのだ。下の階級でも個人がビッグになる夢を持つ自由がある。(実際にはその競争に勝てるのは稀でも。)しかしどんな場所でも、競争が人間の構造として自然発生しないという妄想のほうが悪質な妄想でもあるのであって。・・・要するに自由主義社会の論理が自浄的に階級の問題を止揚した、現在であり、社会進化とは政治革命を別に伴わない、むしろ政治革命こそは技術進化の後追い、後付けとして現象するのだということになる。
  • う〜む、、、、。この結論というか、現実が、マルクスの為した宣言に対して、それを受け取った過去の運動の在り方において、どのようなアイロニカルな意味を持つものなのか。歴史の狡知そして理性の狡知か、諸行無常かというところではあるのだな。二十世紀という革命運動の世紀を回顧するとね。ただ一つ、(初期)マルクスの間違いに対して明らかに指摘できる事柄があるわけだ。それは政治革命を大衆的に主体化させてオルグするのではなく、全くそれ以前に、技術的な発明によって社会の物理的な変化に働きかけることが、社会を進化させる条件であるということだろうな。そして進化というのは、意識という立場、主体性という立場、真面目さ(真摯)という立場からは、−要するにそれらはすべて内面の問題に還元しうる−およそ縁遠い現象にあたるのだろうということ。

*1:アナーキズム多神教的なのに対し、コミュニズム一神教的であるということになる。そしてマルクスコミュニズムにとって一神教的性質の根拠になっているのは科学的認識の力である。

*2:ということは、柄谷行人が打ち出していた立場、これは確かに今までない新しい立場ではあったのだが、一神教的なアナーキズムとでもいえるもので、要するにそれは最初から語義矛盾を含んでいたといえるのではなかろうか?