プロレタリアートの黄昏

1.
西洋システムの歴史的な歩みとはローマ帝国以来のキリスト教システムの発展過程に重なっている。それはキリスト教が全体的な統治システムとして完成していく過程である。ルネッサンス期以前までのキリスト教システムとは精神主義的な抑圧性が強固に機能したために、生を去勢して囲い込むシステマティックな環境を自己完結的なものとして作り上げていた。生の活力が充実することを妨害する作用のことをニヒリズムと呼ぶ。西洋キリスト教システムの歴史とはニヒリズムの発展過程として捉えることができる。ニーチェは分析した。キリスト教の正体とはニヒリズムである。ヨーロッパのキリスト教システムが孕むイデアの傾向とは、ニーチェの分析によって、禁欲主義的理想を志向する傾向性であると明らかにされた。ニーチェは言う。禁欲主義的理想とはその実、何を意味しているのか?と。

2.
しかしやがてヨーロッパ的な禁欲主義的理想に内包されていた精神性は、ヨーロッパにおける資本主義社会の内在的な破壊力によって突き破られるようになる。それは歴史進化の物質的な過程であった。資本主義が目覚めさせたのは閉塞的なイデアを突き破る物質的な次元でもあったのだ。そしてそれは欲望のアナーキーな次元も呼び起こした。キリスト教のシステムとは、資本主義の展開に応じて分裂した。資本主義の流れに自己を適応させようとしたキリスト教の新しい流れはプロテスタントととして独立した。キリスト教の存立自体がカトリックプロテスタントとして分裂したものとなる。禁欲主義的理想の傾向性とは、しかしヨーロッパの中では亡霊的に根強い。それは姿かたちを変えて、それ自体で生き延びようとするものだった。 形を変えた近代ヨーロッパの禁欲主義的理想とは、一方では資本主義的に勤勉な労働者を育成することに新たに貢献した。そして寛容で心広き新しいキリスト教的なブルジョワ像もうんだ。

キリスト教システムを突き破る流れの一方として、共産主義マルクス主義が発生する。コミュニズムが掲げた新しいイデアとは「プロレタリアート」であった。しかしやがてプロレタリアートというイデアも、延長するヨーロッパのニヒリズムに感染し、転落していく過程を見ることになる。 ヨーロッパのニヒリズムとは、解放を約束したはずの共産主義運動の中で、こんどはニヒリズムの感染を強めていくことに、逆説的な展開としてなっていったのだ。

3.
やがてプロレタリアートイデアとは二つの意味を担うようになった。それは二つの傾向性である。マルクスプロレタリアートに革命主体を見出した。しかしそれが生成の無垢を解放する担い手という意味である限りにおいて、それは正しかった。しかしプロレタリアートの意味はやがて裏切られるに至る。共産主義運動の中で、プロレタリアートの意味とはだんだんと逆転していくのだ。やがてそれは「主体化されたプロレタリアート」という意味に転じていく。主体化されたプロレタリアートの展開とはやがて観念としては悪質なものになっていく。つまりそこでは、禁欲主義的理想の観念が新しく転移された形で、新しい意味を帯びてくることになったのだ。ヨーロッパのニヒリズムはやがて共産主義運動のほうへと結果的に転移していった。ニヒリズム自体は姿かたちを変えながら変幻自在に。そこでは、自由を自己否定する主体としてのプロレタリア的な投企がイデア化された。しかしそれは新しいニヒリズムの出現を意味づけたにすぎなかったのだ。

結果、社会主義運動の中で明確になったものとは、マルクス主義キリスト教化であった。しかしマルクス主義キリスト教化、これほど皮肉な裏切り、これほど悪質なものもまたないのだ。マルクス主義キリスト教化とは明らかな倒錯であり失敗である。その結果、ロシア革命によってボルシェビキに端を発したヨーロッパの共産主義運動がどのようなものになったのかは、歴史を見るに明らかな限りである。ヨーロッパのニヒリズムとは、キリスト教からこんどはコミュニズムに姿を変えてまた再生産された。プロレタリアートとは、ニーチェの示した「禁欲主義的理想」の観念の焼き直しヴァージョンにすぎないものとなった。東ヨーロッパの共産カーテンの歴史とは、西洋史的に見れば、また再び「暗黒の中世」状態の繰り返しとなった。これらはヨーロッパのニヒリズムの反復された過程となった。ニーチェの分析と予言は正しかったのだ。