天国と共産主義

マルクスの『ドイツイデオロギー』のノートに残っているとされている、次のようなマルクスの記述は有名である。

共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、実践的な現在の状態を止揚する現実的な運動だ。僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない。この運動の諸条件は、眼前の現実そのものにしたがって判定されるべき今日現存する前提から生じる。
『ドイツイデオロギー』草稿の欄外に残されていたとされるマルクスの書き込み

いわゆる共産主義運動が行われている最中では、事あるごとにマルクスのこの記述が引用される。よく引き合いに出されるものだ。マルクスは、「共産主義」とは何なのかについて、なんら積極的な理想は出していない。だから共産主義の理念なるものはいつも不明瞭であるのだが、それはしかし別に誤った事態ではないのだと活動家から活動家の間へ、また学者から生徒の間へと伝達されてきたのだ。共産主義とは何なのかということについては、常に根本的には不明瞭な部分が残っている、しかしそれは別に難ずるに当たらない事情なのだと、この一文を根拠にすることによって言い聞かせられてきたのだ。

マルクス共産主義について積極的なビジョンを提示することができなかったという事実について、むしろそれをポジティブに言い聞かせよう、納得させようとするときの言い方にこれがなっている。逆にマルクスが、共産主義が積極的で可視的で、説明可能なものではありえないと暗示していることのほうがマルクスの天才的直観を意味しているのだというような伝授になってそれは続いてきた。しかしこのようなマルクス共産主義という前提に対する捉え方は、ヨーロッパに古くから続く神学的思考の解釈との類似から見れば、なんら特殊なものではない。それはすぐに起源を明らかにできるはずのものだ。特殊でもなければ、このような物謂いは何ら天才でもなくマルクスに限ったものでもない。それは明瞭なことである。たとえばニーチェによる次のような記述を見てみよう。

「天国」は心の状態である。−「地上のかなたに」ないしは「死後に」やってくる或るものではない。自然死の全概念は福音のうちには欠けている。すなわち、死はなんらの橋梁でも、なんらの移行でもなく、死というものが欠けているが、それは、死が、まったく別の、たんなる仮象の、たんに記号として役立つにすぎない世界に属しているからである。「死期」とは断じてキリスト教的概念ではない、−「時刻」、時間、自然的生とその危機などは、「悦ばしき音信」の教師にとっては全然存在しない・・・「神の国」は、なんら待望されるようなものではない。それは、昨日をもたず明後日をもたず、「千年」待ったとして来るようなものではない、−−それは心の経験である。それは、いたるところに現存し、どこにも現存していない・・・
ニーチェアンチクライスト』 三四番

ここで「天国」というのを「共産主義」と言い換えてみよう。神の至福について、天国という彼岸の状態において捉えることをやめよ。本当の天国、すなわち神の至福とは、現世における積極的な実践行動のうちにこそあるのである。そこをマルクスに言わせれば、実践行動とは運動の謂いである。重要なのは、生きながらにして、天国にいるように感じることができるようになることである。それが実は、キリスト自身の教えには最も忠実なあり方である。神の教えを「天国の扉」への権利であるかのように歪曲した責任とはパウロのものである。・・・というように、ヨーロッパのキリスト教神学の解釈学的前提とは、常に最終的にはこのような認識論的な極が控えているものなのだ。それはもともと神学が体系化されえた時の最初からいつも潜在性としては存在している。だからニーチェによる記述も、別にニーチェが特別に言い表しているものでもなく神学解釈の歴史的過程をニーチェは正確になぞっているだけである。

救世主の生涯はこうした実践以外の何ものでもなかった、−祈祷すらも。彼はユダヤ人の懺悔と贖罪の教え全部を清算してしまった。おのれが「神的」、「浄福」、「福音的」であると、いつでも「神の子」であると感ぜしめうのは、生の実践のみであるということを彼は知っている。神への道は「懺悔」でもなく、「罪の赦しのための祈祷」でもない。福音的実践のみが神へと導くのであり、この実践こそ「神」である!−福音で片づけられてしまったもの、それは、「罪」、「罪の赦し」、「信仰」、「信仰による救い」という概念をもつユダヤ教であった、−ユダヤ教会の教え全部は「悦ばしき音信」のうちでは否定されている。
おのれが「天国にいる」と感ずるためには、おのれが「永遠」であると感ずるためには、どのように生きなければならないのかということに対する深い本能、他方、これ以外のいずれの態度をとっても断じておのれが「天国にいる」と感ずることはないのだが、このことのみが「救世主」の心理学的実在である。−一つの新しい行状であって、一つの新しい信仰ではない・・・
ニーチェアンチクライスト』 三三番

それについて積極的なものとしては提示できない、理想として見せることはできないが、しかしそれは確かに在るのだ、という提示の仕方について、「否定神学」という呼び方もできるだろう。それはヨーロッパの神学体系にとって伝統的な流れであり、巧妙な仕掛であるのだ。