情報と身体

道元の伝記映画『禅』を見る

月曜日にシネコンで『禅』という今公開中の映画を見た。道元の生涯を映画化したものであるが、道元と正法眼蔵には以前から興味があったので見てみた。といっても僕は道元についての初心者である。特に何を知っているというわけでもなく、禅についての漠然と…

サミュエル・フラーの『最前線物語』−戦場の狂気と日常性の戦場

サミュエル・フラーの『最前線物語』を見ていた。フラーにとって、1980年の映画で、もう彼の作った最後の方に近い映画にあたっている。スター・ウォーズのマーク・ハミルが兵隊役で出ているが、彼はスターウォーズ以外の作品では殆ど当たらない役者だったの…

ニコラス・レイの撮った古典的イエス像

昨夜はずっとニコラス・レイ監督の『キング・オブ・キングズ』を見ていた。数日前にはやはり同監督の『北京の55日』を見ていた。ジェームス・ディーンの『理由なき反抗』を撮ったニコラスレイであるが、『理由なき反抗』が1955年の映画で、『キング・オブ・…

『ラスト、コーション』−主体化とは、なぜ意識を裏切るのか?

前作「ブロークバックマウンテン」に続くアン・リー監督の映画である。アン・リー監督というのは特に注意していた名前ではないのだが、ブロークバックマウンテンでちょっとした感銘を受けたので、その前作に当たる「ハルク」(超人ハルクの実写版映画)をD…

嫌われ松子に、人は何をか投影するのか?

6. 映画『嫌われ松子の一生』では、それが単にジャンルとしての悲劇として提示されているのではなく、悲劇の構造を笑うことによって汲み上げようとするものになっている。この映画の中で一貫して力を吹き込んでいるものとは、中島哲也監督によって示されてい…

『嫌われ松子の一生』とキルケゴール症候群

1. 不完全な譬えにすぎないが、愛の関係に置き換えて考えてみよう。愛の根底には自己愛がひそんでいる。だが逆説を求めるその情熱が燃え上がって絶頂に達するとき、自己愛はほかならぬおのれ自身の破滅を欲するのだ。愛そのもののほうも、またこの自己愛の破…

シンボルを解体することの意味

1 ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で示した問題設定とは、こんどは『複製技術時代の芸術作品』において更に別の角度から究明されている。 いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんな近くにあってもはる…

意識と自然

1 ソクラテスの本質をとく一つの鍵は、「ソクラテスのダイモニオン」と呼ばれるあのふしぎな現象である。彼の法外な悟性が動揺するような特別の状況下で、しっかりとした足場を彼が得たのは、そういう時に聞こえてくる神の声によってであった。この声は、そ…

ニーチェと音楽

1 ニーチェにとって、音楽を哲学に導入するとは、どのような意味を持った試みだったのだろうか。それはニーチェの著作の流れにとって、最初の問題系を形作っている。ニーチェの出発点とは芸術哲学であり、芸術の歴史によって抽象されて取られる切断面から見…

ロマン主義という痕跡

1 ベンヤミンの『ドイツロマン主義における芸術批評の概念』。ドイツロマン主義の分析においてベンヤミンが見出しているのは、反省的な知の持ち方が、何処かで直接的な確実性、直接的な知覚によってリンクされ、保証されていなければならないと考える、ある…

アレゴリーによる闘争

1 ニーチェの時代背景にとって、悲劇の発見とは何を意味したのだろうか。ベンヤミンは、近世から近代のキリスト教世界にとって、悲劇を上演することの意味とは、シンボルVSアレゴリーの闘争という様相を取ったのだと分析している。2 アレゴリー的な見方の根…

ウィトゲンシュタインの解明

1. しかしこのような宗教的的な儀式性の意識に起源をもつ、ちゃんと読むという強迫観念、そして、ちゃんと読めという強迫的命法の意識(意識過剰)が、実際には少しもテキストを正確に読むという営為には寄与しなかったということは明らかである。ここでウィ…

タリバンの子供たち

1. 『カンダハール』という映画の中に、アフガニスタンの神学校の中で学ぶ子供たちを描写しているシーンがある。子供たちはコーランを朗読している。頭にターバンを巻きつけたたくさんの子供たちが、おのおののコーランに向かい合い、唱えながらしきりに頭を…

オカルト的

1. オカルト的である、とはどういうことか? オカルト的であるとは、自己を啓示的だと感じていることである。 2. だから、オカルト的な意識とは、他ならぬ、オカルト的な自己意識の事である。 人類の歴史は、このオカルト的な物の意識から、いまだ自由になっ…

『寛容さ』という感情の起源

ニーチェは、人間にとって、寛容さという感情の出来上がる起源について、それが果たして倫理的な思考に発するものであるのかどうかということについて、ある疑義を提出しているのだ。 共同体はその権力が強まるにつれて、個人の違反をもはやそれほど重大視し…

プロレタリアートの黄昏

1. 西洋システムの歴史的な歩みとはローマ帝国以来のキリスト教システムの発展過程に重なっている。それはキリスト教が全体的な統治システムとして完成していく過程である。ルネッサンス期以前までのキリスト教システムとは精神主義的な抑圧性が強固に機能し…

天国と共産主義

マルクスの『ドイツイデオロギー』のノートに残っているとされている、次のようなマルクスの記述は有名である。 共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは…

情動の技術

エチカの第四部『人間の隷属あるいは感情の力について』で、スピノザの試みている作業とは何だろうか。 感情を制御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとになくて運命の権利のもとにあり、自らの…

ルサンチマンの処理を巡る

1. Re=sentiment。ルサンチマンの意味とは、過去について再−感情化を施す心理学的な傾向にあたる。 ニーチェによれば、ルサンチマンを道徳法則として構築してしまったことが、キリスト教における最大の誤りである。ルサンチマン道徳の発生とは、それ自体はじ…

スピノザとニーチェ

1. 生前はまだその価値が埋もれていた著作家、スピノザの再評価、スピノザルネッサンスとは、歴史の中で何度か繰り返し現れている。18世紀にドイツ人においてスピノザの価値が発見され充実したスピノザ研究をもたれた。ゲーテによるスピノザ研究、スピノザ礼…

『生存の美学』が成立するための条件とは?

映画『ブロークバック・マウンテン』において二人の男の同性愛を「生存の美学」たらしめているものとは何だろうか。そもそもアン・リー監督のこの作品が2005年度に話題を集めたジャーナリスティックな理由とは、カウボーイの中に同性愛がありえたという物語…

『自己愛する神』の存在−『ブロークバック・マウンテン』

『ブロークバック・マウンテン』は、アメリカのカウボーイにおける同性愛を扱った映画である。1963年、ワイオミング州のブロークバックマウンテンにて、羊の放牧管理の仕事を得た二人の男の存在があった。二十歳の青年、イニスとジャックである。二人は大自…

スピノザとプライドの価値

スピノザにとって、人間的感情としてのプライドが、彼の哲学にとってはどのような価値を帯び、位置づけを占めているのかを見てみよう。エチカ第三部の諸感情の定義より、 三〇 名誉とは他人から賞賛されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜び…

ヨーロッパの裏アソシエーションの歴史

宗教教団の乱立して抗争を繰り返した近代までのヨーロッパの歴史が垣間見れるところが『ダ・ヴィンチ・コード』の面白いところである。ヨーロッパの地全土を舞台にして、かつての宗教教団の乱立する様というのは現代史で言うと左翼の様々なグループが興亡を…

ダヴィンチコード

「ダヴィンチコード」がヒットしている。僕も早速見てきた。これが映画の出来としてはどうなのかということについては、ここで論じない。そういうのはテレビで、おすぎさんの批評にでも任せたい。それより僕が興味深かったのは、この映画の舞台としている西…

人間性と自然性=自然と反自然の循環式

1. 柄谷行人の『倫理21』において最終的にはこのようなメッセージが論理的に導かれることになる。 一つだけ念を押しておきたいのは、資本制段階からコミュニズムへの発展はけっして歴史的必然ではないということです。それはただ、「自由であれ」、「他者を…

「こころ」の二重性

倫理という位相が問題となるとき、そこでは必ず現実の把捉において何かの二重性が機能しているのがわかる。ルールを巡る二重性、法意識を巡る二重性、あるいは法と掟の分裂、善悪と良悪を巡る二重性、境界を巡る二重性、そして主体化を巡る二重性である。そ…

倫理における抽象性と具体性

1. しかし、ここにドゥルーズの引き出した倫理の解釈とは全く逆の結論を出した人がいる。それは日本の柄谷行人である。柄谷行人は、『倫理21』という本において次のようにいう。 私は、この本において、道徳と倫理という言葉を区別しようとしました。カント…

道徳と倫理の違い

1. ドゥルーズは、スピノザに即して、モラルとエチカの違いについて説明している。道徳的な善悪とは価値の対立に基づくものであり、超越的な基準を持って審判の体制を作るものであるのに対して、エチカとは、この審判の体制自体を引っくり返すものであり、生…

『個人的な体験』を巡る

大江健三郎が二十代の終りに書いた小説、『個人的な体験』において、自己欺瞞の意味について問われている。自己欺瞞を否定するがあまりに出口がなくなる自意識の持つパラドキシカルな構造が、この作品には露わなる痕跡として残されている。それは出口のない…