『嫌われ松子の一生』とキルケゴール症候群

1.

不完全な譬えにすぎないが、愛の関係に置き換えて考えてみよう。愛の根底には自己愛がひそんでいる。だが逆説を求めるその情熱が燃え上がって絶頂に達するとき、自己愛はほかならぬおのれ自身の破滅を欲するのだ。

愛そのもののほうも、またこの自己愛の破滅をこそ求めているがゆえに、こうして双方の心は、あの情熱の一瞬にぴったりと通じ合う。そしてこの情熱こそ愛にほかならないのだ。恋をしている人間にどうしてこの道理を考えられないわけがあるだろう。

たとえその人間が自己愛に閉じこもったままで愛そのものに逆らい、おのれの破滅に徹するその道を見ることも、ましてそれに踏み切ることもできないでいるにしても。

愛の情熱とはそういう消息なのだ。そこではたしかに自己愛は破滅の底に身を投げ込む。しかもそれはことごとく滅び去って無に帰してしまうのではなくて、愛そのものの手に奪い取られて、いわば愛の勝利をあらわす殊勲の分捕品となる(エペソ書四・八〜一〇)

そしてその愛の手の中で、ふたたびよみがえることができるんだ。そしてこうした経緯こそ愛の試練ということなのだ。

逆説と理性の関係もそれに似ている。ただしここではあの情熱が別の名称をもつ。いやもっと正確に言えば、僕達がそれにあった名を探してやらなければならないんだ。
キルケゴール『哲学的断片』

2.
映画『嫌われ松子の一生』において描き出されているのは、昭和の時代のクロニクルであるとも読める。日本が経済的な成長として飛躍していく過程で、その裏の側面において起きていた出来事を、川尻松子という一人の女性の転落していく悲劇的な軌跡として描き出している。

川尻松子は昭和22年に福岡県の島で生まれる。平成13年に東京荒川の河川敷にて、撲殺された死体となって発見される。そのとき松子は53歳であった。松子の人生に並行して走っていたものとは日本の戦後史である。中島哲也監督の描写している松子の生い立ちの背景にある風景のそれぞれとは、昭和という時代を彩った様々なるイメージを、時代を追って変遷していくものとなっている。

松子が殺されてその生を終えるまでの最後の10年間ほどの間は、荒川近くのアパートで彼女は引きこもりの生活をしていたが、その間彼女の心の希望を繋いだものとは、テレビに出てくるアイドルの光ゲンジであった。

松子が人生を放棄して引きこもり生活に入る時期にパラレルに起きていた事件とは、昭和天皇崩御である。平成に年号が変わるニュースをアパートのテレビの画面で眺めながら、以降松子は殺されるまでの間を、引きこもりとして、肥満した図体を抱え、生活保護を受け、病院に通い、ゴミ屋敷と化した部屋を横目に、死んだように生きたのだ。

3.
松子は福岡県の中産階級の家に生まれている。大学を卒業してから始めについた仕事は中学校の教師である。一見普通の先生に見える松子は、内面に病的な部分を抱えていた。

松子の病気の起源とは彼女の家族関係にある。松子の家庭には、病気で寝たきりの妹を抱えていた。妹の看病をする傍ら、松子は父親の愛が妹のほうに奪われていると感じ続けていた。自分だけ家族の中で愛されていない。それは妹のせいだ。その意識が彼女のコンプレックスとなっていた。

他人に愛されたいと思う余りに頑張る気持ちが、松子の行動に妙な変調を生む。変調はやがて職場の人間関係において失調を来たす。

中学校の修学旅行で生徒の万引きをかばうことから、結果的に松子は中学を辞める羽目になる。仕事を失った松子は実家も飛び出す。妹の幻影からも逃げ出す。松子は昔から妹に献身的な看病をして付き合った。しかし松子が頑張っても家族の愛とは妹のほうへ奪われてしまった。

常に自分の努力とは、象徴的な次元では報われないのだというメカニズムが、物語にとって事件の触媒として機能していくことになる。松子の抱えている悲劇的なメカニズム、悲劇的な運命の構造が、松子と共に昭和の時代が変遷し発展し豊かになっていく模様を裏付けながら、映画が進むように出来ているのだ。

4.
家を飛びだした松子は、その後様々な男のもとを変遷することになる。いずれにしろ変わらないのは、松子の献身的で自己犠牲的なスタイルである。松子は常にその場で精一杯、自分の対象となっている相手に愛と労働を捧げようとする。しかし彼女の愛はいつも報酬として戻ってこない。それが彼女の悲劇的な悪循環を作り続ける。

5.
自分に暴力を振るい続けた最初の男、太宰の真似した文学崩れの男が自殺して轢き殺される瞬間を目撃し、次にその友人だった男の愛人になるが裏切られ、松子はソープ嬢に転身する。しかしソープ嬢となった松子は一躍金を稼ぎまくり店のトップにまでのぼる。ヒンズースクワットをする中谷美紀のイメージが反復する。『愛はバブル』というボニー・ピンクの曲が流れながら。

中谷美紀が役を演じきった川尻松子にとって、彼女の努力が最も報われたときとは、ソープ嬢の時代であった。ヒンズースクワットによって腰を鍛える彼女にしても、鍛えれば鍛えるほどそれが具体的な成果として目に見えるように返ってきたのはこのときなのだ。松子は稼いだ金を男に貢ぐが、裏切られることによって男を殺してしまう。こうしてまたネガティブな陰影を歩く彼女の人生が再開されることになる。

愛、献身、労働、犠牲、これらが松子の行動のパターンである。松子は中学教師の時代も、妹の看病の時代も、常に自分の労働に対してしまいには情熱を感じていた。しかし情熱的になればなるほど、自分はその対象を壊してしまう、それが松子の悲劇的なパターンになっている。