ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』

  • ケン・ローチは主にこれまで、労働者階級的な生の側面からリアリズムを抽出してきた作家である。イギリス人映画作家としてのケン・ローチが維持してきたのは、社会主義的視点とリアリズム的視点である。彼の新しい作品、『麦の穂をゆらす風』において彼が切り取ったアスペクトとは、1920年代のアイルランド独立闘争の経過を描写することによって、政治闘争というものの意味を問い返す作品となっている。それは単にアイルランドの独立というローカルな話に留まる事はない。政治とは何か?闘争とは何か?何だったのか?という事について、史実を用いてケン・ローチは問い返している。
  • 政治の本質を浮き上がらせるためには、ケン・ローチにとって時に戦争を描き出す必然性が生じている。この作品において、独立のための戦時中と、条約が成立した市民的生活の確立する戦後的な過程において、戦争的な主体性と暴力が解体しながら、時代的な空気の流れのうちで拡散し消えていく経過を表現している。この作品の構成は、戦時中と戦後の二つの部分に分けて成立していると考えられるだろう。政治の起源には戦争がある。アイルランド独立戦争の場合、人民的なレジスタンスとしての戦争の起源を見ることができる。
  • 人はどのようにして政治を発見するのだろうか?この映画において、まず主人公の青年達、アイルランドの村の牧歌的な兄弟であり家族であり仲間達だが、彼らが強制的に戦争の暴力に巻き込まれるというところから始まっている。それは政治の洗礼を、イギリス兵に逆らったが故に納屋でリンチされて殺された若い弟の身体に刻まれた傷跡というところから受けている。国家的な力の従属関係から市民の身体に刻まれた暴力の痛みの跡が、ここではレジスタンス、革命戦争のモチベーションになっているのだ。
  • 暴力の生々しい傷跡が、革命に向かう闘争の情念を燃え上がらせている。それがレジスタンスグループにとって、彼らの主体性の条件として、投火され続けたのだ。そこでは身体に加わる痛みが、主体性の実体になっている。痛みによって供給され続ける怒りが彼らのエネルギーである。革命のための情熱であり、頑なな情念になる。アイルランド人の身体がイギリス兵から受けた暴力の痛みが、常に映画の進行上でも主体性の条件になっている。村ではレジスタンスのグループが結成さたが、密告によりイギリス軍の元へ身柄が引き渡される。そこでメンバーが受けるのはイギリス兵による残忍な拷問である。生のまま爪がペンチで剥がされ、レジスタンスの青年は気を失う。出血し、命さえもそこで落としそうになるが、メンバーは牢獄から脱出することに成功する。逃げ帰り、傷を治療したレジスタンスのメンバーは、イギリス軍に報復するプランを練ると同時に、密告した裏切り者を身内の中から探し出す。彼らによる処刑の儀式が、麦畑の中で行われる。拉致してきたイギリス人の役人を銃殺した後、自分達の幼馴染でもあった少年を、悲痛な気持ちと冷厳なる主体性でもって撃ち殺したのだ。裏切った仲間を葬る前には、彼に自分で遺書も書かせた。
  • アイルランド人による市民的な独立闘争は一定の成果を収める。やがてイギリス政府は妥協案としての条約を持ち出す。独立闘争のグループはまだアイルランドの町の中で残っている。独立闘争で戦ってきた左派的なグループは、新しく平和を取り戻しつつある町の中で、次第に形勢を変えていくことになる。若い男女が平等に入り混じり、人民会議的に町の自治を進めている彼らの在り方は次第に変わっていき、グループの中でも対立がおきる。イングランドの妥協案に従う派とアイルランドの完全独立を続ける派にグループは分裂することになる。そして今まで一緒に戦ってきたレジスタンスの兄弟は、次に敵になってしまう。
  • 何の為に闘っているのか、もうわからない。・・・イングランドアイルランドの条約締結のニュースが映画館で上映されるのを見ながら、彼らの本音が語られる。かつての村の牧歌的な仲間達は、独立戦争を経て、市民的な成長と別れを経た、そしてやがて悲劇的な結末を迎えることになる。最初に、村を襲ってきた彼らの敵とはイギリス兵だった。彼らは身に受けた痛みにより深甚な決意性を持って自らを主体化し、独立戦争を闘った。やがてその敵の姿とは分裂し複雑に変遷した。かつての仲間は今の敵になってしまった。彼らが辿ったものとは、一つの悲劇の構造である。それでは彼らは一体、どこで間違えたのだろうか。彼らの取った選択の一つ一つは、常にその場面において最も必然的なものであったはずだ。しかし彼らはその結果としての悲劇的な運命の構造を逃れることができなかった。しかし、ケン・ローチの捉えている視点とは、彼らが何を間違えていたのかについて明晰な分析を我々に与える視点というのを決して失ってはいないのだ。この史実から我々が明らかに、論理的に知ることができる行動と思考の条件というのがそこにはやはりあるだろう。
  • つまり情念が経験を裏切るのだ。それがこの映画で描写され反復されてきた構造である。レジスタンスの仲間の悲劇とは、情念と経験と思考のシステムを分離して考えられなかったことに、その原因を持っている。情念によって社会の構造を捉えてはいけない。情念によって社会の全体を覆えると思ってはいけない。情念は主体性を実体として、それまで支えてきたものの正体である。レジスタンスの情熱を支えていたものとは、痛みによる怒りから来る情念だった。情念の根拠は彼らにとって身体的に刻まれていた。やがて戦争は終了し近代化的で市民的な社会整備の時代に入る。そこでは痛みとは、もはや身体的な条件としては消えていくことになるのだ。痛みが身体のものであったのは、もはや過去の痕跡である。身体による苦痛とは、市民化して整備される社会では消滅していき、それより痛みとは、精神的なものとして目に見えない偏在となるのだ。そして身体的な傷跡の後に来るものとして、精神的で社会的な関係性の複雑さと直面することによって生じられる痛みとは、人間にとってより本来的で普遍的な実在である。この精神的な苦痛の偏在性を指す言い方として、フロイト的に謂えばそれは精神病-phycoses-の発見ということに当たる。情念の重力を相対化するためには、それを身体的で事実的な傷跡ではなく、精神的な単位としての社会性として発見しなおす必要があるのだ。(1920年という年代があまりにパラレルにフロイト的な発見の年代であるというのも付け加えておく。)独立戦争が終った後に、かつての村の牧歌的な仲間が遭遇したものとは、この新しい、精神的な痛みとしての引き伸ばされた社会の現実なのだ。身体的な苦痛が消滅し、次に人間的な意味ではもっと普遍的な次元にあたる、精神的な苦痛としての社会性が広がる。
  • 主人公の恋人だった女性が、馬に乗って村の家に知らせに来た軍服の兄の胸を引きむしり、最後に家の前の地面を、体中の悲しみを堪え、泣きながら叩いている仕草、もはや言うべき言葉も見つけることが出来ずに、唇を噛み締めている遣り切れなさとは、彼らが新しく遭遇することになった、精神的な痛みの普遍性としての現代的な社会システムの到来を意味しているものである。もはや何一つとして単純な仲間とはありえないし、単純な苦痛とはありえない。単純な愛ならば、必ずや悲壮な仕打ちで報われることだろう。単純な怒りとは不可能である。故に身体的な苦痛が革命として主体化されうるのだという解釈の図式も崩壊している。政治とはもはや全く単純なものではなくなったのだ。アイルランドの牧歌的だった村の存在とはこの現代化による割礼の後には、もはや前に戻ることはできない。そしてこの精神的な痛み、目に見えない遣り切れなさとしての痛みを、よく摘出できる政治性というのを、我々はまだよく発見できていない。その新しい政治性の発見に到達することこそが、イギリス人的な社会主義者としてのケン・ローチの、今後の新たな課題であるという事は、もう言うまでもない。かつてと同じような意味での闘争という意味とは、もう成り立たない。ラストで地面を叩きながらむせび泣く村の女とは、闘争という言葉の意味の死を巡る、喪の仕事の最中なのだ。それはケン・ローチ的な存在にとって最も必然的なる喪の仕事でもある。他人の喪の仕事の最中を、横から覗き見ることとは、たとえ映画の中とはいえ、我々にとって余りにリアルな体験である。