『サウンド・オブ・ミュージック』−三角形を巡る謎の超越

ロバート・ワイズ監督による1964年の有名なミュージカル映画である。ミュージカル映画の中では古典といえる。舞台は、第二次大戦前夜のオーストリアである。ナチスドイツ帝国によるオーストリアの合併を進めていた。オーストリア海軍の将校の邸宅に新しい家庭教師が派遣される。修道女のマリアである。将校の家には子供が7人いるが妻を失っていた。この家には過去にも家庭教師の女性が何人も派遣されたのだが、皆長続きできずにやめている。修道院の命を受けてマリアが訪れるが、すぐにその理由を理解する。この家の子供たちは家庭教師に対して手の凝ったイジメをやる悪習をもっていたのだ。父親の将校は厳しい人間だった。規律の意識にとても厳しい軍人であり、自己の規律性にも相応する高いプライドを持っていた。子供たちも父を敬うと同時に深く怖れている。なぜだかこの7人の兄弟姉妹の間には、外から来た余所者に対するイジメの習慣が発達していた。映画の中で子供達のイジメは、悪質というよりも素朴な悪戯という感で描かれている。もちろん何かこの大邸宅における精神的な統一の構造が、子供達のイジメの体質と関係しているのだ。

ジュリー・アンドリュースの演じた家庭教師マリアは、この家で啓蒙者の役割を担う。草原で子供達を前に、ドレミの歌をうたうシーンは有名である。彼女は、悪戯のやまない子供達に対して、丁寧に忍耐強く啓蒙し、道徳的な感情に目覚めさせた。将校に対しては、彼の高慢な自己の鎧を自然に溶かしていく。謙虚さと愛によって、下から家族を導いていくという役割を演じている。マリアは決して優秀ではありえず、そそっかしく、お人好しで、失敗ばかりを演じている。しかし彼女は根底において真面目であり、信仰が強く、忍耐強く愛の到来を待つことができる、ある種の人間的な精進の為の理想の女性像として、彼女の凡庸な人の良さと高いレベルを持った愛のスキルと向上性の共存した人格として示されている。キリスト教的な人格像として、弁証法的な完成を導くために理念的な媒介子としてのイメージが、若き修道女マリア像によって示されているのだ。

どういう意味でマリアは、キリスト教的文化体制において理想的なのか?まず彼女は、三角関係の中に入っていくことを嫌う。三角形の内部に踏み入れてしまうことを怯えている。将校は次の妻を探し、多額の遺産相続を持っている貴族の夫人と婚約を準備していた。しかしマリアの人間味溢れる姿に感銘した将校は、次第にマリアの方へと心が惹かれるようになっていた。貴婦人もその気配に気づく。マリアは将校の気持ちを察知して恐ろしくなり、将校の家を飛び出し修道院に逃げ帰ってしまう。修道院の部屋で只管、神に祈るばかりだ。そしてマリアを巡って、貴婦人と将校の配慮も猥雑な方向へと乱れることがない。劇の中で人間的な嫉妬心の存在はうまくヴェールに包まれたまま、露骨さが暴力的に出てくるのを防いでいる。どこまでも下手なマリアを巡って、本来ならば人間的な醜さの露呈するだろう恋愛関係の修羅も平和裡できれいな解決へと導いてしまう。この三角関係に対する絶対的な超越性というのが、殆どキリスト教的な奇跡の信仰と一致しうるのだろう。三角関係を嫌うこと、三角関係を超越する方法論を見出すことは、キリスト教文化における美徳として目標にされた課題である。あるいは裏を返せば、自己犠牲を演じつつも結果的な勝利を収めるための方法論的な希求である。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア像において、近代キリスト教的な理念が表現されていたのだと言える。一介の家庭教師の女性が、只管な真面目さと道徳的に強固な信心によって将校の妻にまで上る筋というのは、かくして理想的なシンデレラストーリーとして出来上がっている。