『マゾヒズムの経済論的問題』(1924年)

人間の欲動生活においてマゾヒズム的な傾向が存在することは、経済論的には謎に満ちたものと言える。快感原則が不快の回避と快の獲得を第一の目標としながら心的なプロセスを支配してると考えると、マゾヒズムはそもそも不可解な営みなのである。苦痛と不快が警告ではなく、みずから目標となりうるならば、快感原則は麻痺し、われわれの精神生活の番人も、麻痺にかけられてしまうことになるからである。
フロイト 『マゾヒズムの経済論的問題』

  • マゾヒズムの意味を広義に捉え直したとき、人間の行動と認識のパターンである種の傾向を解明できるとフロイトは考えていた。フロイトが精神病の実在と向き合い解明するとき、その根底には行き着くところ、文化の問題が見出される。苦痛を自己に向けること、特にその矛先の向け方が精神的にも思考のパターンとしても奇妙に固着したものとして見出されるとき、そこにはキリスト教文化が深く病理としてきた問題の存在が浮かび上がることになるだろう。
  • 心的プロセスにとって、それをコントロールしている原則とはまず、涅槃原則(ニルヴァーナ)だと考えられている。それは生命体にとって、恒常性の維持に関わる原則であり、心的装置に流入する総ての興奮量とは、総和がゼロになるか、出来るだけ低い水準で維持されるように持っていこうとする原理にあたる。
  • 涅槃原則と快感原則とでは、その根源を同じくしている。すべての不快(苦痛)は、刺激による心の緊張の増大であり、すべての快はこの緊張の減少であると考えれば、この原則はすべてが死の欲動に寄与するものとなる。つまりそれは、エネルギーの総和をゼロ(つまり涅槃)に近づけるように、生命体自身が自ずから働いていることになる。本当にゼロになるとき、それは死そのものであり、生命体は有機体の状態から無機物に戻ったことになる。すべての有機体とは、無機体に回帰することを自動的に志向しているという仮定をもって、死の欲動というメカニズムが考えられるのだ。
  • 本来は死の欲動に属していたはずの涅槃原則が、生物体にとって何処かで修正を被り、これが快感原則になったのだと考えられる。しかしそれが快感原則になったとき、もはやそれは、リビドーの要求を代表する生の欲動に変わっていることも意味している。それは生のプロセスを強固に規制している自動的な計算機械の存在になっているのだ。
  • フロイトは快感原則の存在を、生の番人であると考えているのだ。「生の番人」とはどういうことだろう?『われわれは快感原則を、人間の心的な生だけでなく、人間の生命全体の番人と呼びたいと考える。』つまり、もし快感原則がうまく働かなくなったら、その機能が抑圧されたり硬直化してしまったら、必ず精神は何らかの形で失調を来たすものだと考えられる。なぜなら、苦痛の実在に気づかされることとは、本来生命体にとって何らかの危険信号の現れである。何かがメカニズムの失調によって損傷の危機に瀕しているから、それは苦痛あるいは不快として危険のサインを送っているのだ。
  • しかし人間の作る文明にとってある文化体制の段階になると、宗教的な理由、そしてそこに連結した道徳的な体制において、あるいは性愛的なエロスの体制において、本来は危険信号であったはずの、苦痛・不快の実在がそれ自体で目的になってしまうという転倒が生じることがある。これは宗教的な現象や道徳的なパラノイアとしては、非常に厄介な病気傾向の存在になる。精神的な転倒として情念から怨念の固着や、思考の取り違えだけではなく、それは身体的な現象としても自らの身を痛めるように赴くだろうし、社会的な対人関係においても自己破壊的な身の投げ出し方になる。『マゾヒストは不合理なことをしでかし、自らの利益に反して行動し、現実の世界に開かれている輝かしい展望を破壊し、最終的には自己の生存そのものを滅ぼさざるを得なくなるのである。』
  • 象徴的な意味では、十字架にかけられたイエス像のイコンを考えてみればよい。苦痛の存在について主体化するとか、自己の苦痛から他者の苦痛を共同化するとかいった発想−イマジネール−が、宗教的な理由で発達するようになる。キリスト教的な使命感−すなわち、他者の苦痛に主体化する−とは、そのうちどんな文化体制としての意味を発生させるようになるものだろうか。

道徳的なマゾヒズムは、欲動の融合が存在することを典型的な形で証言するものである。これが危険であるのは、道徳的なマゾヒズム死の欲動によって発生するものであり、破壊欲動として外部に向かうはずの欲動の一部が、自らに向かうためである。そしてこれは他方ではエロス的な成分としての意味を持ちうるのであり、リビドー的な満足を伴って、その人物の自己破壊が起こりうるのである。

  • 我々にとって問題とは、フロイトがこのように道徳的マゾヒズムのメカニズムを解明しながら示したものとは、時代の中で起きているどのような社会的傾向に対する警告であったのかということを、もう一度改めて発見しなおす営みになるだろう。