ジョン・トラボルタの『ミッドナイト・クロス』

ブライアン・デ・パルマ監督の映画で1981年の作品である。ブライアン・デ・パルマといえば、かつてはキャリーやフューリーといったオカルト物、サスペンス物、ホラー物を撮っている。最近では「ブラックダリア」というのを撮ったみたいだが、これはまだ見ていない。「ミッドナイトクロス」(原題「BLOW OUT」)では、ジョン・トラボルタが起用されている。この時期のトラボルタは、グリースやサタデーナイトフィーヴァーにも出演していて、いわばトラボルタの絶頂期にあったのだろうが、デ・パルマ監督の本作では、大統領候補だった男の殺人事件の現場に居合わせた映画の録音技師が、自分の録音をもとに、迷宮入りになろうとしている事件の真相を証明しようという映画になっている。この映画を実はタランティーノ監督が好きで、トラボルタの復活をかけて、あのパルプ・フィクションに起用したという話だ。DVDがあったので借りてきて見てみた。

事件があり人が死に、しかし事件は事故の扱いで、真相が藪の中に埋もれたまま、過ぎ去ろうとしている。偶然によって事件と遭遇した男が、自力で謎解きをしていくという過程である。この事件には若い女が絡んでいる。死んだのは大統領候補で、彼をスキャンダルの罠で失脚させるために、情婦として送り込まれた女である。そして遭遇した男のトラボルタは、映画の録音技師である。彼は仕事上の一つの課題で悩んでいて、サイコのシーンのような、シャワーを浴びている色っぽい女に殺人鬼がナイフをもって襲い掛かるという、あるB級映画の撮影シーンで、そこに加える女の悲鳴の音について、どうしてもうまい音が撮れなくて悩んでいた。何人もエキストラを試したりして、悲鳴の後取りの為に試しているといった、日常的にそんな仕事をして送っている男だった。ある意味退屈な、映画作りとはいっても下請け労働みたいなものをして過ごしている男だが、偶然ある夜に公園で、射撃の音とともに川に落下した車を目撃し、車の中から女を救い出したことから、事件の解明に深入りしていくといった話。

トラボルタの魅力とは何なのだろうか。事件の流れに翻弄されているといった感の若い真面目そうな男の像を演じている。黒く大きな彼の瞳が、巻き込まれる現実のシチュエーションに応じて、クルクルとしながら不安げな色を露わにして、正直に反応するのがわかるといった感がある。この真面目そうな感じ、事件に対して受動的に、正直に反応してしまう表情と身体の感じというのが、見ていて面白いのだと思う。パルプフィクションでの役柄も、やはり事件の流れに逆らえないといった感じで、右から左へと、人を死なせてしまったり、入ってきたヤクザの情婦に振り回されたり、全く関係のない唐突な巡り合わせから、誤爆ブルース・ウィルスに射殺されてしまったりと、運命に受動的に振り回されながら、その成り行きを大きな瞳で、他人事のように受け止めて流しているといった、身の上に起きている事情との距離感みたいなのが、妙にクールな感じを醸し出している。何を考えているのか表面からはよくわからないような内面といった感触が、男性的でありながらも彼の身体とすれ違う時には把握されるという感じなのだ。そしてそういった内面性を見せる男は、付き合っているこちら側のほうを度々不安にさせる。

結局、彼の身の上に、一緒に事件を追っていた女を死なせてしまうことによって、仄かに、密かに盛り上がっていた彼の恋心も、呆気なく失ってしまう。そして雪の振る人気のない公園で寂しく、自分の頭や肩に降りかかる雪も気にしない様子で、呆然と物思いに沈み込むトラボルタの姿が描写される。この寂しさを身に受けた味を出せるのは、やはりトラボルタなのだ。密かに繋がっていた事件の女を失った後に、彼の作っているおかしな映画では、遂にベストマッチした悲鳴の音を作り出すことに成功する。事件の究明の中で密かに盛り上がり、掴みかけていた情熱を失った後に、非日常的な目的愛と喪失のプロセスを経て、彼は日常に戻ってきて、自分の地味だが着々とした映画的仕事のプロセスにおいて、整合性を見出すものだ。地味な向上心のプロセスと、そこに静かに非日常的な冒険の夢のようなプロセスが重なり合う。静かで渋い映画だが、70年代から80年代に時代が進行していく中のアメリカ映画であり、サスペンスとしても探偵性としても、静かに時代の日常的な陥穽を抉り出す体験を、映画的時間と空間によって作り出すという意味では、実に燻し銀の映画に仕上がっているものである。この暗さと冷たい描写の中の仄かな暖かさというのが、じわりとした感動を共有させるものである。この時期のアメリカ映画では、同様の静けさの中に浮かび上がらせる情動のハーモニーといった作風が、時代的に他にも多く、傑作として埋まっているのだと思う。