『松ヶ根乱射事件』

山下敦弘の映画で06年の作品。あの『リンダリンダリンダ』の監督である。完成度の高い映画を作る人だと思う。『松ヶ根乱射事件』も、ブラックユーモアによって彩られた山間部の田舎町に生きる人々の模様を上手く描き出している。この監督の持つユーモアのセンスがとてもいいと思う。データを調べると、最初は、つげ義春の漫画を原作にした映画などから作り始めているみたいだ。76年生まれの監督なので、まだ若い方だと思うが、センスとしては、とても成熟した、充実した全体性を孕んだ客観的で冷徹な世界観を、自ずから持っていると思う。これだけ透き通ったような冷静な眼差しで物が見れる、映画に収められるというのは、並大抵ではないのではないかと思う。「リンダリンダリンダ」で示された田舎の高校から見える町の全体像も、密度の高い情報量を持っていたし、今年度に封切された「天然コケッコー」でも、過疎の村の中学生の恋愛ドラマに反映させた、村の構造から東京の距離まで含めた共同体的な人間像の全体性を、見事に収め切っていた。個々の人間のドラマが、小さな事件から始まって、より大きな次元の全体性を帯びること、個々の事件が別の事件へと必然性の緒をつけて拡がっていく問題設定というのが、稠密によく組み立てられている。

山下敦弘はイメージの作り方もうまい。色の使い方もよい。特に松ヶ根乱射事件では、冬の山間部の田舎町を描くために、白く積もった雪の上に映える青い空の色、そして雪のない時も、冬場、それは春へと向かいつつあるまだ寒い季節に起きている事件なのだが、田舎の町の室内の暗さと、外の光の晴れている時の不気味なほどの青さ、外の青い光が暗い室内に入ってくる時の寒々しい光の反射を、的確に見せている。この冷たい光線の中で、すべての物体が縮こまり怯えているような印象さえ受ける。この寒い光の中で、知恵遅れの女の子の寝ているところへ、普段は警察官の男が、やりにくる。女の子は、誰にでも言われればやらしてやる。狭い町の中で、誰でも簡単に受け入れてしまう。ある日この女の子が妊娠してることがわかる。父親は誰か。たぶん警察官の男の親父(三浦友和)であるみたいだ。しかしそうは言われているが、本当は息子の方の子供かもしれない。どうだかわからない。よくわからない。狭い田舎町では、恐らくすべての事柄が、このように曖昧な了解の中で動くのだ。そして決定されていく。特に深く考えたり、立ち止まったりすることはない。あり得ない。親父はだらしのない、グータラ親父。実家は、牧畜業で牛を飼い、牛乳を作っている。轢き逃げされて雪の中に仰向けに倒れている女。登校中の小学生男児が一人でそれを見つける。触ってみても女は動かない。女が生きてるのか試している。胸に手を入れて揉んでみる。動かない。こんどは下のほうからスカートに手を入れて揉んでみる。女はピクリともしない。女は生きていたのだが、偏屈なヤクザの女だったので、後で事件はややこしくなった。いずれの事件においても、狭い町の閉塞感が滲み出ている。

山間部の田舎町の屋内では、よくテレビが付けっ放しにされている。部屋の中の人は、テレビをずっと見ているときもあるし、付けているだけで別にテレビは見られていない状態の時も多い。寂しい町の部屋の中において、このようにテレビを付けているという状態が、ある種普遍的な状態として存在する。人々はテレビによって時間を潰している。人が別の遣り方で繋がるためには、外は寒々しすぎるし、人と人との距離は余りに遠すぎるように感じられる。そのような寒々しさを、この映画はとても的確に捉えている。ヤクザの男(木村祐一)は、警察から帰ってきた女を見て、どこいってたん?と声をかけ、女は服を脱ぎ捨て、鏡に自分の裸を映し、車にぶつけられた痣を見ながら溜息をもらしている。男は、そんな女を押し倒し、前置きもなしに、いきなり股をまさぐりはじめる。女の疲れ切った、悲鳴とも喘ぎとも聞こえるような声が漏れる。テレビはずっとその間中つけっぱなしである。

複数の事件が町の牧畜一家を巡って進行する。それらの事件は何処かで繋がっている。この映画で、監督の作り方で特徴的なのは、おかしな事件は片鱗を見せるが、それが何故どういう理由で起きていたのかという、説明的な次元は抜きにして、事件の表層だけで、複数の事件性を組み合わせていき、最後まで説明性というの示されない、省略されているというところにあるだろう。ヤクザは轢き逃げした男を捕まえて、金銭を要求する。轢き逃げ犯は、警察官の双子の兄だったのだが、ヤクザに脅され、自分の隠してある金塊を提供する。それは凍り付いた湖の底に、バッグに入れて沈めてあり、氷を切って潜水服でもぐり、バッグをあけて金塊を見せると、そこから男の死体の切り取られた生首がゴロリと出てきて、氷の上に転がる。この金塊から、映画の中で一つの事件の筋が展開するが、この生首が誰のもので何故出てきたのか、轢き逃げの男と生首死体の関係は何なのか、この金塊はもともと何処から由来したものだったのかとかいう、そういう説明的な筋が、最後まで一切説明されないというのが、素晴らしいのだ。ただ青ざめた生首が鮮やかに転がる。説明は抜きである。それは土の中に埋められて、事件の気配を知った警察官の兄が掘り起こしたりもするのだが、結局、その生首と金塊の関係は何だったのかは、全く説明しなくても、映画の全体はうまく走り抜けてしまえる。ヤクザの男と情婦は、結局事件の後に、その町の家に住み着くことになるのだが、ヤクザ男は最後に何のなりわいを得たのか?木村祐一が、何かを殴りつけているようにずっと作業に熱中している絵が背後から映し出されているだけで、彼が何をやっているのか、それは示されない。どうやら男と女はそこに住み着いたのだということだけがわかる。説明しないで、出来事自体の流れと接続だけで、映画を示す。このスタイルで、平然と公開できて、堂々と面白さを示せるところが、もうこの映画の只ものではないところである。乱射事件、そう、まさに事件の数々は、田舎の閉塞性の最中にて、暴発のように乱射されて散っていくのだが、その事件の表層を浮き上がらせることだけで、いちいち説明などは要らず、完全に映画的出来事のエッセンスとは、見事に抽象化されて提示されている。この抽象力の優れたレベルにおいて、山下敦弘とは、いま際立っている監督なのである。