『ゾディアック』

デヴィッド・フィンチャーの一番新しい作品『ゾディアック』をDVDで見る。これはダーティハリーの第一作でモデルになった、サンフランシスコで実際にあった連続殺人鬼の事件について、イーストウッドダーティハリーでは、最後に犯人を突き止めることになっているが、実際の事件では、迷宮入りになった事件であり、ゾディアックを名乗り、マスコミに声明文も送りつけていた連続殺人の事件について、その迷宮入りになった過程を追っている。残忍な記憶を人々に植え付けた一個の鮮明な社会的事件について、それが謎を帯びたまま、真相は藪の中に包まれたまま、警察的な捜査上も迷宮入りになっていく、ついには事件も人々の記憶から忘れられ消えていくというプロセスを淡々と反復している映画である。この事件を最も執念的に追求した人物は、事件の渦中で新聞社のイラストレーターを務めていた漫画家で、彼は事件に取り付かれ追っていくうちに、仕事も家族も放り出し、結局最後には、ゾディアック事件についての研究を本にして出版した。映画はその漫画家の行動をプロセスとして追い、物語化している。

「エイリアン3」や「セブン」、「ロード・オブ・ドッグタウン」といった映画を作っているフィンチャーであって、この人は結構面白い監督だと思う。現実にあった出来事を再現するという意味では、前作の「ロード・オブ・ドッグタウン」と同じ実話の掘り起こしという形式をとって物語化している。時間を掘り起こしていくという手法について、ゾディアックの場合、埃を被っており、手を付けられるのが躊躇われるような負のオーラを放っている領域について、そこから一つ一つ化石を掘り起こしていくような感じで、地味で曖昧で引き伸ばされた時間の中で、タブーとしての事件の記録が拾い上げられていく。それを映像の憂鬱な時間性と、くすんだような色合いの中で、地味であるが内に篭った強烈な好奇心と執念が漏れ出すように示されながら、事件と物語の中心に、次第にフォーカスが整ってくるという進行である。記憶として再現する、アメリカの郊外的な風景とは、60年代から70年代の風景であり、当時の町並みを巧妙に再現して車やセットを選んでいる。まだ情報や人の移動が過疎的であった、町の外れの、事件が起きても不思議がない、境界にあるような寂しい景色について、ノスタルジックに、寂しい人気ない夕暮れに塗り潰された空を思い出させるように、とても切なく、一昔前の時代の記憶を鮮やかに蘇らせている。この風景描写のうまさだけで、デヴィッド・フィンチャーというのが、潜在的にはイメージに対する凄い強烈な密度の内在性を持っている人なのだというのは分かる。

セブンは相当面白い映画に出来上がっていたのだが、今回のゾディアックについては、同じノスタルジックな記憶に潜む、不気味な外傷性の丁寧な発掘であるにしても、登場人物の求心力や物語の落ちの付け方については、どうも中途半端な仕上がりになったと思う。セブンはとても面白い映画だったので、そこのところは失敗かなと思う。しかし、映画の前半部で反復して示された、顔だけよくわかならない謎の背の高い男としての、殺人魔ゾディアックの登場するタイミングとイメージというのは、もう不気味さの醸成としては絶品のもので、日常的にも馴染のある人気ない郊外の寂しい夕暮れの中で、こんな憂鬱な時間帯に、あんな取り返しのつかない化け物と遭遇するような、決定的な運の悪さについて、ピッタリとした的確さを突くイメージを再現しているのだ。このうまさは只者ではないことは明らかである。「ロード・オブ・ドッグタウン」の時も、物語の全体構成としては中途半端なものになって、彼の所有するイメージの豊かさを台無しにしていた感がある。イメージと筋というのが、やはりクリエイターの内部では、多くの場合で別々に実在し展開してしまうということの止むを得なさについて、いいサンプルにもなっている監督だと思う。あるいはクリエイターの内部では、イメージと筋は一つのものとして内在したに関わらず、しかしそれが現実に表現化されて物の形を帯びると、どうしても別々の実在に落ちざる得ないということの、証左にも読めるものだ。