『ラスト、コーション』−主体化とは、なぜ意識を裏切るのか?

前作「ブロークバックマウンテン」に続くアン・リー監督の映画である。アン・リー監督というのは特に注意していた名前ではないのだが、ブロークバックマウンテンでちょっとした感銘を受けたので、その前作に当たる「ハルク」(超人ハルクの実写版映画)をDVDで見たときは、何かとても同じ監督のものとは思えず、理解できなかったことがある。その以前の作品というのは見ていないのだが、登場人物の悲劇的な過剰によって人間関係が幕を畳む構造を古典的になぞっているという感じの作風の人なのかとは思った。中国系のアメリカ人監督である。ハリウッドの手法には馴染んでいる人だろう。ブロークバックマウンテンで心を打ったのは、フォークギターでシンプルに奏でられたあのテーマ音楽の反復性だったが、ハルクの時にはテーマ曲の音楽にヴェルヴェット・リボルバーガンズアンドローゼズから分岐して出来たバンド)を使っており、音楽に対するセンスといい拘りをもって上手く演出している監督だなとは思っていた。今回のラストコーションでも、情念の奥から立ち上がってくるようなオーケストラの緊迫した音が、上海を舞台にした時代的で悲劇的な色調をよく奏でていた。

原題は「Lust caution」というタイトルだが、横には中国語で「色戒」と出ている。なぜ色戒なのかは見れば分かるように、この映画はとてもよく出来ている。日中戦争下の日本軍に占領された上海で、抗日レジスタンスの秘密組織に加わった学生グループが、送り込んだ一人の女スパイの刺客を軸にして、悲劇的な運命を辿っていく。日本の支配下で警察的統治の指揮をする政府高官(トニー・レオン)を暗殺する為に、演劇をやっていた学生たちのグループが、仲間を高官の愛人として送り込む。送り込まれた女性(タン・ウェイ)は、もともと世間知らずの感もあるお嬢さんだが、何か屈折した感のある少女という赴きで、彼女の少女時代を振り返るエピソードでは、中国人社会において、ブルジョワ階級にいるのだろう彼女の視線とは、藪睨みで強い光線を放っており、戦時下の中で移動する、普通の貧しい中国人たちの流れていく様子を、ブルジョワ的な列の側に身を置きながらも、何か悲しそうに観察している。そういった女性の描写がとてもよく出ている。彼女は抗日グループに身を投げ打った仲間たちと、訓練を積みながら次第にスパイとして成長していく。情婦でありながら、暗殺命令を秘密に背負った二重性を、戦時占領下の上海で生きることになる。

この映画で提示されている構造とは、主体化とそのズレ、主体化仕切れない残余と主体の間にある微妙な溝において、人間的な情念が立ち上がり、結果的な運命を左右していく、主体の不可能性を示すことにあると見えるのだ。「ラスト、コーション」において、性欲は何処で愛に変貌するのか。動物的な性欲という時点では、愛人を持ちたがる上海当局の高官においても、抗日レジスタンスの演劇青年たちが持つ性欲においても、それが特に意味不明の自律性を持ちうるということはなかった。ただ動物的に晴らされているかのように見える、人間の性欲が、何処かの時点で、意識の下からは制御不能な、微妙な実体性を帯び、それが単なる性欲を遥かに凌駕しうる愛の情念へと、登場人物を駆り立てるようになっている。

この飛躍のやって来た起源とは何なのだろうか。戦時下で、占領下の中国上海において、仲間がいて敵がいて、間には線引きが為され、仲間には友情の実体を抗日的な演劇活動の中で育み、敵に対しては、秘密裏の活動と情報の受け渡しにおいて、明瞭な憎しみを育ててきた。この状況下において、若い学生レジスタンスの中で強いられている力学とは、主体化である。自己と自己の存在の意味について、主体化して決めて明らかにする必要に迫られている。そこでは、没主体的であることは、怠惰か裏切りにあたる。主体的であるか否か、その二者択一しか許されていないという人間的条件が、抗日レジスタンスの若者たちの間では漲っているのだ。

スパイの密使を与えられることになる女性が、この主体化の二者択一的な強制力に、必ずしも疑いを持たなかったわけでもないというのは、彼女の移ろう表情を描写していく中でも分かるのだが、時代的状況の力学の中で、彼女はそれを引き受けるに至る。仲間への愛情から、あるいはグループの青年への恋心からか。スパイとして訓練されるために、彼女は強引に処女を失わされることになるし、性的手管のテクニックも、友人の男から身に着けていく。彼女の題材になった青年とは、かの恋心の男とは違う男だった。恋愛という心情への起源は、漠然とした深い同胞愛を元から抱く女にとって、理想的なものとして、心の何処かには仕舞われていたものの、それらを上から埋葬するように、彼女にとっての密使とは、忙しなく詰め込まれ仕立て上げられた。そして暗殺の対象であるはずの親日の高官と愛人関係を結ぶ。高官の愛人として家に潜り込むことにも成功するが、高官の彼女に求める性愛とは、サディスティックで暴力的な激しいものだった。

殴られてるのか愛されてるのか分からないような激しい情事を重ねる中で、同時に彼女は、暗殺のミッションも、レジスタンスと秘密連絡を取りながら、計画的に張り巡らしていく。女性における、ミッションを背負った工作員としての主体化、そして祖国への愛、仲間への愛、彼女が自己を収めようとするこの主体的な意識から、暴力的な情事の反復の中で、微妙に何かがズレていったのを見過ごすことはできない。暴力的に見えたかの高官の性とは、行為の後に無防備な和解を見せる。単に暴力的であったかのようなセックスとは、後々には激しい情愛としての結合を見せていく。最初に、女が高官に暴力的に抱かれた後、女は目に痣を作った顔でベッドの上で置き去りにされ、奇妙な笑みを浮かべている。この笑みの意味が何なのか、映画の終わりまでいかないと分からないように出来ている。

最初に、主体化とは、恋愛の成立するための前提を作っている。しかし恋愛とは、この主体化を裏切るズレをもたらす裂け目を、主体と主体の間に開示する。それは情念的な欲望の起源にも当たっている場所である。予測不可能な裂け目のズレである。結果的に運命を決するものとは、この裂け目の方にある。決して、主体化と意識の側にはないものである。これは主体化と身体化の間では、唯物論的なズレが、確実なやり方で到来しようということの描写過程である。主体化、秘密、意識の裏側、そして、情事、激しさとしての暴力性、そして身体化の極である。主体化と身体化の二極を揺れ動くことによって、高官と情婦の欲望の情念とは、燃え上がっている。それはお互いの立場にとっても。

主体の決意的な行動を狂わせる深淵の存在について、映画のラストでは、広大な谷底の暗闇のイメージとしての、改めて、この映画を作ってきた情念の深淵の存在について、映画は、跪く登場人物たちの先に、決定的な巨大さのイメージとして、現出することに成功している。それは見事な裂け目のイメージである。そしてこの決定的深淵を描ききった後に、静かに訪れる映画の締めくくりとは、愛人のいなくなったベッドの上で、愛人のいた気配のある白いシーツの皺を、手で何度も確かめるように触っている、その仕草である。確かに、その女は存在したはずなのだ。この微妙なシーツの皺の柔らかさの中で。しかし日本軍が戦争で敗戦し、運命の逆転が起きるまでに、その確かめる感触とは束の間でしかなかったはずである。ここにもまた、意識を超えた、意識と主体化を裏切ったものとしての、運命の存在が、やはり逆説的にあったのだ。主体化とはこのように、一定の時代環境下で現れうる、悲劇の条件であることを、アン・リーは見事に見抜いているのだといえよう。