弁護士とタレント

そういえばテレビを見ていて思ったが、大阪の府知事に新任したのは橋下徹という、テレビの出演で人気を博して出てきた弁護士だった。弁護士からテレビのコメンテーターとして定着する人がいる。今日の昼に見た八代英輝も、ご意見番のようにしてもはや馴染み深い。NYと日本を股にかけ弁護士活動をやる有能弁護士で、スキーもうまいしスポーティな感じで捌けている、いわゆるイケてる弁護士とでもいうのだろうか。弁護士という階級があり、その仕事も、国家的な保護を受けている肩書きとはいえ、ピンからキリまでだろうし、バリバリと活動しうる弁護士、儲ける弁護士から、地味な仕事を続ける弁護士、左翼活動の周辺などで見かける特徴的な弁護士、イケてるとはちょっと言い難い人まで、様々いるのだろう。難関といわれる司法試験を通ってその職になるわけだが、橋下氏や八代氏というのは、いわば勝ち組弁護士とでもいえるものであって、弁護士という特権職で勝ち組に入るというのはどういうことなのかと、ちょっと興味を持った。橋下氏が議会で質疑応答にこたえる場面を見たが、府職員の給与を下げるという案について質問され、僕だって、知事になる前は年収三億近くあったのです、と言っていた。つまり年収三億あったはずの仕事をあえて返上して、私は府の仕事に臨みに来たのですと彼は言っているのである。仕事の意味というのは、収入の大小では計れないものがあります、そんな答弁を彼はしていたと思う。

エリート弁護士とかいう言葉があるが、しかし彼らは本当に、エリートなのだろうか?そこはエリートという言葉にまつわる観念を、一回疑わせるものが、彼らの周囲からは出てくるのだ。八代さんについて調べてみたら、彼は慶応の出だが高校は城北埼玉だったらしい。うちの近所の高校で、かつては多くの場合滑り止め用の高校として使われていた私立高校で、僕の頃はまだ新設校だった。僕の友達でも県立に落ちて城北埼玉にいったものがいたが、新設だし受験一辺倒で露骨な管理教育だし、友達を見ていて結構辛そうな高校だなという印象を持っていた。八代さんはその一期生で生徒会長をしていたらしい。八代さんが慶応だというのはよくテレビでも出てくるしNYでの仕事の活躍などのイメージから、もっとブルジョワ的な生い立ちで、例えば付属から慶応に上がったような人のイメージを持っていたのだが、なんだ実は城北埼玉だったのかよと思ったのだ。出身は東京板橋だというが、当時の城北埼玉に入ってくるなんて、結構中学あたりで悪いことやってたのかもしれないなと。橋下さんの場合は、大阪の古い公立の進学校から早稲田である。高校時代はラグビーで花園に出たこともあるらしい。早稲田では学生ビジネスをやっていたみたいで、革ジャンの卸販売業をやっていたという。橋下氏にしても八代氏にしても、司法試験は早期に、すぐ通っているみたいである。特に司法浪人していた形跡はなく、その辺は元から頭の回転は早い人達なのかなとは思う。年収三億近くありましたと語った橋下氏の経歴を調べると、彼はサラ金系の金融機関で有名な商工ファンドの顧問弁護士をずっとやっていて、それで基盤を作ったのだろうということである。商工ファンドというと、評判が悪いことで有名なんだけど、彼はこういうところを通って大きくなった人なんだなというのがわかった。

弁護士になるというと、いわば勝ち組職業の一つだが、その中でも特に勝ってきた人というのが、別にブルジョワ的な生い立ちではないというところが面白いと思ったのだ。いわば堅実な努力家として、弁護士を踏み台にし、大きな出世を為したということである。彼らは、ブルジョワ的で特権的な環境を若い時期に知らないから、逆にその後の着実な、一途な努力が可能になったのだという筋も強いだろう。余計な情報を入れなかった故に、彼らの社会的地位としての成功があるのかもしれないからだ。いずれも東大ではない。適度に遊びをよく知っている。しかし結果的な、この日本社会の勝ち組とは、東大でもなくブルジョワでもなく、彼らのような人々の手に入ったというのが、いわば我らの時代の漠然とした競争的環境の現実である。

八代さんは、議論では柔軟な頭のキレを見せるが、橋下さんの場合は、わりと硬直的に、右派的に対立を作り出す傾向がある。なんかこんな話をしていても、彼らと同世代で落ち零れた人間の腐れ興味かとも思われかねないのだが、しかし、橋下のケースと八代のケースを見ても、一体、この世の中で、日本の社会で、エリートとというのは何処にいるのかな、本当にいるのかと思ったのだ。要するに、僕は、エリートが階級的に実在するかのような語り方をする人達というのは、全部嘘だと思うのだ。エリートはどこにいるのかといえば、この橋下氏と八代氏のケースというのは、まさにエリートの勝ち組の実態である。彼らは、日本社会で仕事をする人達の中で、最も勝ち抜いた人の一部であり、その実体である。しかし彼らは、よく調べるほど、別に他の普通の人々と何ら特殊な環境を背負っていた人ではなく、ただ堅実な努力を積み重ねた結果、運良く今の勝ち組を手に入れたというのにすぎない。そんな他人を圧倒させるようなエリート階級なんていうのは、存在しないのだ。あっても、別に意味はない。あってもそういう階級の存在は、別に何か特殊な価値を湛えているというわけではない。所詮は、堅実な普通の、わかりやすい努力が勝ってしまうように、世の中とはできている。世の中の現実的な仕組みであり、それはどうしたって合理的なものの所産に落ちるのだ。結局、僕らの世代で、競争という意味でのトップに立ったのは、城北埼玉から頑張って慶応いったやつと、府立高校のラグビー部から浪人して早稲田入ったやつだった、ただそれだけのことである。もっと凄そうに見えるキャリアを志向したものもいっぱい見たと思うが、結果的に勝てる人というのは、ああいう背景だったということ。金銭的にも、地位的にも、社会的名誉にしても。これで、宮崎県知事になった東国原氏のキャリアまで入れれば、ブルジョワとかエリートとか、それらが本当に虚妄だというのが、見えてくる。そしてこういう結果は結果として、合理的だし、腑に落ちるものだと思う。(彼らが堅実に、余計な情報に振り回されず努力したのは、目標としてのブルジョワ志向が、たとえそれが虚構的イメージだとしても、機能していたからだろうが。)