今の渋谷を歩きながら、坂口安吾なら何と云うだろうか?

先日の、公害問題と他者という話の続きについてだが。

渋谷を歩いている女子高生に、「だから何?」を言われると云う事とは、主観の内部でしか倫理として思われていなかった情念のわだかまりについて、突き返される体験であるが、他者とは何かについて、ずっとこういうものだと拘り続けていたのが、坂口安吾の示した他者の位相である。

今では水俣病問題の周辺位でしか、あまり見ることもなくなった、ある種の顕著なスタイルであったものであるが、この傷を見よ、この被害者を見よと、主体が、他者に向けて積極的にアピールする、あるいは現実には他者に覆い被さろうとする、情念的主体の体制である。

しかしケースを見ていていつもわかるのは、別に水俣病の実際の被害者が、当事者としてこれをやっているというわけでも大抵の場合はなく、やはり外部から来た左翼を自称する第三者が、水俣病患者の有様を盾にして、この情念的左翼の構造を反復しに来る、というのが実態である。現実の公害事件の当事者とは、これは大抵の場合、関係ない人がやっている。だから利用しに来ているのだともいえる。

渋谷の女子高生的な凡庸な一般構造を、即ち他者の一般的位相とみなす。他者とは何かについて、そこには本来、別に何の神秘的な深みもないし、最も凡庸で有り触れていて、一般的なものこそが、真に他者であると、改めて示しなおす。

主観の情念は、この確固たる堅牢な他者の水準を前にしては、簡単に付き返される。無効を宣言される。唯物論的な世界の水準の前で、その無力さから無意味さを顕わにする。

公害事件のような他者の苦しみの中から、何か非合理的な重心を取り出してきて、それを根拠であるかのように、疎外論的な情念の構造を全体化させようとする欲望は、本来的に疚しいものである。

他者のその傷に無関心を示す、路上の衆が疚しいのではなくて、疎外論的情念の全体化の企てに、自己の情念を紛らわしている、その押し付けがましさの主体の有様が、疚しいのである。

主体に対して、「だから何?」を突きつける物の位相、これが真の他者である。

坂口安吾の示した堕落という言葉とは、常に誤解されてきた。そういう時の堕落という言葉とは、その後現実にはうまく機能したことがないのだともいえる。そもそも安吾がそれを口にした時点から、堕落論を書いた時点から、堕落の意味の使われ方は、間違っていたのである。だからその後、ある種神格化さえされて持て囃された安吾の堕落概念だが、既に安吾が使っていた時期から、実際にはいい加減なものだったのだろう。

坂口安吾的堕落とは、渋谷を歩く無垢で脳天気な女子高生に対して、水俣のような他者のおぞましい苦痛の姿を見せ付けてやり、他者の苦痛の情念に、女子高生達をこの世の全体主義的に巻き込むという在り方では決してなくて、その逆に、他人の苦痛を後光のように示しながら女子高生に近づいていったものの、全く相手にされず、馬鹿にされ、突き返される、という有様の方が、主体の情念と思い込みが、それら物理的な壁に跳ね返されて無効を思い知らされるという体験の方が、はるかに正しく、安吾の堕落概念を意味しうるものだ。

坂口安吾一つ取ってみても、その言葉の意味が、いかに悲劇的に取り違えられるものなのかというのが、よくわかるのだが、そもそもそのような論を示した安吾が文学者であったということから、文学自体のアイロニカルな、システム自体の罪深さをこそ、慮るべきなのだろうか。今になってみれば。

いまだにある種の情念と主体の病とは、形を変えて世には残り続けている。しかしそういった人間的病の、意識の陥る病的錯誤の構造について、その論理的ウィルスが、全く消えてなくなるということもまずないのだし、適当にウィルスは、社会の中で生きていてくれていたほうが、あらゆる新しい世代にとっても、人間の歴史、人間の構造というのを、正確に把握するための題材としても、それらは社会の中で、ウィルスとしてさえも、風に吹かれて在り続けているものなのだろうから。