ある戦後的な極端さの指標

宇井純という人物だが、日本の近代左翼史のコードを振り返る上で、この公害研究家の人物の持っていたイデーの傾向を、改めて分析してみることは、現在我々が持っている論理のコードについて、何故時代的に、このようなものになっているのかを振り返る上で、分かりやすい指標を見ることが出来るものだ。

特徴的に次のような文面に込められたイデーを見てみよう。

宇井純『公開自主講座開講のことば』

 公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いをうけるたびにわれわれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためのものであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した。その結果として、自然を利益のために分断・利用する技術から必然的に公害が出て来た場合、われわれが用意できるものは同じように自然の分断・利用の一種でしかない対策技術しかなかった。しかもその適用は公害という複雑な社会現象に対して、常に事後の対策としてしかなかった。それだけではない。

個々の公害において、大学および大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足尾鉱毒事件をのぞいて皆無であった。

 建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学があるそこでは学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。

 立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する。この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を問くこととした。この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。修了による特権もない。あるものは、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加をよびかける。
 [週刊講議録『公害原論』創刊号(1970.10.12)より]

00年代の我々は、既に「倫理的=経済的」というスローガンを持っている。しかしこのスローガンは何故生まれねばならなかったのだろうか。このスローガンが90年代の後半から左派的に胚胎してきたことの根拠とは、系譜的にどのような事件の流れになったのだろうか。

それは日本の戦後的な論争過程で、左翼というもののロジックが変遷してきた有様として、ここから180度の展開を為してきた必然性を見ることができるのだ。

宇井純の「公害原論」のマニフェストとは、1970年にあたっている。

「学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった」 、「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」、こういった文面の中に、この時代に、70年代の初頭に、それまでの60年代的な過程の総括として、このような捉え方が為されたのか、そこを精神分析としても見る必要があるのだ。

まず左派的な、問題との向かい合いというのが、特権性をかなぐり捨てること(即ち自己否定的になること、自己犠牲を探究のスタンスに据えること)、そして「立身出世」といった私益の観点は、まず否定的にこの運動の中からは、排されようとする宿命にあるということである。しかし、左派的論理というのが、こういったスタンスの論理構造に先鋭化してしまったのは、現象としてその背景を分析することができる。

まず経済学的な基本に立ち返ってみてみよう。経済行為の基本形、動機の基本を『interest』という条件によって、経済の生成を見るものであれば、「interest」とは、関心、利益とも訳せるし、もっとはっきり訳せば、私益のことだと捉えてよい。つまり、語意の基本に立ち返ってみても、関心とは、常に私的な性質を帯びているのだ。その外にはありえないものである。関心は、どんなものであっても常に絶対的なものではありえず、私という限定性における、相対性においてしかない。これが自然法則における原則である。

宇井純的傾向が、この経済的最小単位としての「interest」と向き合うとき、それではどう捉えることになるのだろうか。私益を限りなく廃棄した上での、純粋な学問上の関心ということに、その意味が限定されることになるのだろうが、そのような純粋な蒸留とは、現実にはあり得ないものだ。

人は必ず、何等かの「私益」によって動くしかない。私益を排することができると想定してしまうことこそが、ある種の倒錯的な論理前提であり、またその論理の出てくる背景にあるものこそが、また別のある種の私益なのだ。

これは人間的関心を巡る、私益、私性を巡る、あるいは更に根底的に指せば、ナルシズムの構成の社会的構造を巡るパラドックスに当たっている。たとえどのような行為であっても、人間的に換算された場合、私益を超え出るものは存在していない。私益、私性の向うに絶対的な公性を設定するのは、意識の過誤であり、公性の現実的な実体とは、常に相対的な私性の最大公約数的な束として表れるものでしかない。

宇井純的なスタイルとは、意識のパラドックスから出てきた、倒錯的な過誤のスタイルであるが、この強迫性、強制性が、左翼論理として、先鋭化した時代が、つい最近の過去に確実にあったのであり、結果的にこのスタイルとは、その自滅性によって、自ら左翼の時代を、終焉させることに機能した。

実際、宇井純やその後継者に追従している研究者の群れというのも、今もある、先日の安田講堂などでシンポジウムを実施した(それでも千人規模の動員があったと出ているが)その実体、成立の内訳を見るに、アカデミズム上のポスト配分としてグループが左派として今でも成立しているからにすぎないというのも、簡単に分析はできる。

つまり公害研究は私益を排せたどころか、列記とした大学ポストの、個的利益としての配分機構としてしか続いてこなかったのである。これが立派な現実である。

水俣の水銀被害をはじめとして、治療や環境行政の上で実質的な研究成果を、地域に与えることに貢献した研究の在り処とは、結局、これら宇井純的なものの流れとは別のものとなった。結果的には、彼らが「御用学者」と言い方で忌々しく排撃した、大学の研究グループが、実質的な処置を施したということだろう。

御用学者と特権性を排すると粋がっていたグループとは、行き場のない亡霊的情念として拡散しただけで、殆ど何も残せなかったのだ。それも当然といえば当然のことであるが。

宇井純は、結局ヤマギシ会との関係を深める。東大にポストを得られなかった、万年助手で終わった宇井純のアカデミズム的キャリアとは、その後沖縄大学に移り、沖縄大学では、名誉教授の地位にまで預かることができた。結局、彼は最終的には現実的に、アカデミズム上の幻想の配分に組したわけだ。また彼の側近で、彼のそういった成り行きを糾弾したものもいない。現実的に考えれば、最後は私性と名誉配分の構造に、社会的に回帰してくるしかないということは、どんな馬鹿でも了解しえたからだ。そして経済的な金銭の配分の現実性である。

人間的行動の法則性、動機の法則性として、これら私益の外に出るものとは、結局ないのだと、もしそのような超越的虚点を、強制的に示したのだとしても、結局は運動の全体を裏切ることにしかならないのだということを、現実的な過程として示したのが、晩年の宇井純の軌跡である。そして宇井純は去年逝去した。

「倫理的=経済的」というスローガンとは、戦後的左翼の経緯として、このような歴史的前提の上に明らかに構成された、新しい実践性であったのだ。それは、倫理とは決して経済外の行為としてはあり得ないのだという事を示している。経済原理を無視して社会を考えることはできないし、そして経済原理の実質とは、明らかに個々の構成要因の私性に、深く根差している。これは経済における自然法則の次元にあたっている。そこを、「自覚の論理」なりで、埋め合わせてしまうことはできない。そこに主体性的な戒律、掟を作っても、経済は自然現象として絶対に裏切るものでしかない。