疎外論とは何故間違っていたのか?

そういえば今年の5月には今村仁司が死んでいるが、彼が80年代に言った「第三項排除」の論理とは、まさに宇井純のいったような「公害に第三者はいない」という論理構造のことを指して、批判し、切断するものであったということは、改めて理解されうることだろう。

今村仁司の「排除の論理」という本にそれは出てきたわけだが、第三項的なもの、あるいは中間項的な実在を排除することによって、自閉的な共同体の論理的な枠が収まりうる、それ自体で存続しようとする、意識に幕をかける構造として、第三項排除型の論理、物言いというのは表れる。

今村仁司をはじめとして、70年代の宇井純的な論理の末期症状を切断することは、日本の論争過程でちゃんと明瞭な形で起こっている。今村に限らず、それは様々な仕方で、あらゆるジャンルから為された批判である。そして第三項排除の論理に孕まれた誤りとは、疎外論に含まれていた誤りと繋がっている。疎外論とは何故批判されなければならなかったのか、改めてまとめてみよう。

問題Xについて、第三者はいない型論理のサンプルを、幾つか取ってみよう。

  • 公害に第三者はいない。
  • イジメに第三者はいない。

繰り返して言うが、第三者はいない型の論理、第三項排除型の論理構造が、すべてのケースにおいて、すべての問題Xにおいて、無効というわけではない。

三者はいないを言う事が、実質的で全体的な意味を担うケースも、ちゃんとある。しかし、第三者はいないを云う事によって、全体に蓋をするとは、それが必ずしも具体的現実を正確に反映させているものではなく、むしろ他人=第三者の、出口を奪うために=自由を奪うために、全体主義的に機能することがあるということ。要するに、ここで問題となっているのはそれなのだ。

  • 公害に第三者はいない。

このとき、最初の大前提としては、公害といっても、そのレベル、種類に分けて考えなければならないということは前に示した。

そして、公害の事件、その被害者とは、我々の全体にとっては「鏡」として機能するのであって、そこから映し出してみて、我々は自己を検証しなければならないとする。

しかし、事件x、問題xのイメージとは、全体として、我々を映し出す鏡であるというのはいいとして、それが第三者的なもの、中間的な要因を排除する原理、原因には、別に当たらないということである。

三者はいないという、出口を塞ぐ論理構造によって、結局何が為されようとしているのか、それは他人の自由を奪おうとしているわけだが、しかも物理的な法規制によって他人の自由を奪うというより、内面的な強制力によって、その自由を脱臼させようとしているポイントに、倫理的命令、倫理的怒号の装いを蒙った、この種の第三項排除型の命法とは、奇妙な悪質さ、奇妙な病気的性質を担っていたということである。

確かに、そこに生じている個別に見える問題が(2ちゃんねるの犯罪から、イジメまで)、誰もが無縁でない全体的な社会の構造から派生して出てきているものであることを見ることは、社会的分析として、必然であり、重要であるが、しかし、その分析によって明らかにされた問題Xによって、何かの主体的な強制力を、他者の立場に対して及ぼそうとする事態に問題が生じるのだ。分析して、価値判断して見ることと、そこから当為を導き出すこととは、本来別の次元にある。そこを区別しないで用いることが、悲劇的な倒錯の有様を、後に左翼的な展開として生み出すものとなった。

社会からの疎外態として現われて来た問題Xが基準となる=「鏡」になることによって、そこから遡行し、社会の疎外論的全体化が企てられるとき、そこには明らかな問題が生じることを見なければならない。

他人の苦痛を映し出す鏡が、そこには装置として据えられている。疎外された者の苦しみを映し出す鏡である。水俣病患者のイメージが、そこには照らし出されている。鏡の底からは怨念の重力が発している。この鏡の中に、世界の全体を引き摺り込んでやろうと欲しているのだ。しかしこれが実は悪循環な鏡の重力であることに気が付かなければならない。(ここでは水俣病患者のイメージとは、ただ利用されているだけである。)

人を映し出すべき鏡とは、それが自閉的な同一化の論理として機能しはじめれば、直ちに打ち破らなければならない、悪質な想像的同一化の拘泥となる。その不気味な鏡の存在を、人はいつ打ち割って出て行ってもよいのである。そこに映し出されるのは、鏡の機能としては同じナルシズムであっても、むしろ転倒的に出てくるものであり、疎外された不気味さをそこで固定し怨念として永らえさせようとすることによっては、結果的な悪魔の鏡になるものでもある。怨念と情念の鏡の存在。その中で自分を映し他人を映してみては、不気味な情念によって、他者の世界への復讐心を革命として確認し続けている倒錯の空間が、そこにはあるのだ。それが理解されたとき、この悪循環とはもう切断されねばならないだろう、この人間界の苦痛の姿を照らし出す為だけに編み出された倒錯の鏡とは、打ち壊されなければならない。

疎外論とは何故批判されなければならなかったのか、疎外論とは、なぜ切断されねばならなかったのかという理由とは、ここにある。そして疎外論がその実、社会の客観的真実を見る眼を、想像=怨念の力によって捻じ曲げるものであったという事実を証明するものである。

疎外論的な苦痛を根拠にした情念から、社会の全体を照らそう、または革命を動機付けよう、果ては社会の全体を覆い尽くそう、想像的に=情念的に、とは、元来、キリスト教的な物の見方に起源をもっている観念の系譜であることも見なければならない。20世紀に、19世紀からヨーロッパで展開されてきた革命思想の結果が、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムという結果によって回収されてしまった事態とは、その理由をここに持っている。

根源的一者によって担われた世界の根源的苦痛によって、世界を中心化するというのが、キリスト教システムの思考の持つ傾向であり、このとき、世界の苦しみを担ったとされる根源的一者とは、イエス・キリストという過去の事である。

これは苦痛の情念を(他者の=自己の)を梃子にすることによって、そこから想像的に社会の全体化を覆おうとする、社会革命の精神、異教徒を戦争によって征服するための精神として、歴史的に基礎付けられてきた。これが実際には、キリスト教の歴史の事実性である。つまり疎外論的な、全体怨念、情念の全体主義化とは、元はキリスト教に起源をもつ意識の錯誤である。

他人の苦痛に共感する力、即ち同情能力のことであるが、キリスト教の場合、この本来あらゆる道徳性において、社会的に基礎付ける根拠となるのだろう同情能力の観点が、それ自体でそこだけ過剰に倒錯するメカニズムを内在しているのだといえる。過剰になってしまった、目的が別のところからやってきた、他者への同情性とは、もはや道徳それ自体としては機能せず、同情の悪用、道徳の転倒的な悪化の方へと機能するようになる。これがキリスト教システムの失敗にあたるのだ。

他者の傷口を巡る想像的情念の全体主義化とは、20世紀の歴史において、社会の全体主義化として、おぞましい有様を現実化させた。それがナチスファシズムである。そこに待っていたのは、最初は素朴な善意だったのかもしれないが、後には単なる同情心よりも恐ろしいものに変貌した、社会の全体主義的な有様である。