宗教にとって原理主義とは何なのか?

神学校内に依然1千人以上立てこもり パキスタン銃撃戦
http://www.asahi.com/international/update/0704/TKY200707040439.html

パキスタンの首都イスラマバード中心部のモスク(イスラム礼拝所)に併設された神学校で発生した治安部隊と武装学生の銃撃事件で、内務省報道官は4日、これまでに650人の学生が政府の呼びかけに応じて投降したことを明らかにした。同日夜にはモスクの指導者の一人が逮捕された。ただ、校内にはなお1千人以上の学生が立てこもっているとみられ、一触即発の状態が続いている。

このモスクと神学校は、イスラム原理主義タリバーンを支持する宗教指導者の兄弟が運営。神学校には10〜30代の男女約6千人が学び、うち5千人は敷地内にある寄宿舎で暮らすとされる。ほとんどの学生は、タリバーンの影響力が強いアフガニスタン国境地帯の出身者だという。

指導者の兄弟は「政府の弾圧には自爆テロで対抗する」と学生に徹底抗戦を呼びかけていた。しかし地元テレビは4日夜、兄のアジズ師が女装姿でモスクから逃げ出したところを治安当局に拘束されたと伝えた。

パキスタン学生運動が激化しているみたいである。といってもこれが我々の普通に想像する学生運動とは、随分と違うものである。パキスタンのような国で政府の批判運動が激化するとき、それはイスラム原理主義的な求心運動として、学生を中心とした人々が結集している。中心となっているのは要するにタリバンである。一方では急進化し過激化したタリバンが暴走し、アフガニスタンの場合、反米運動と資本主義批判がアルカイーダの事件にまで至り、911事件が起きた結果、アメリカによって報復戦争を受けた。アフガニスタンのカブールでは、米軍監視下で完全に抑圧されている状態のタリバンであるが、隣国のパキスタンにあっては、再びその動向が激化している。

タリバンという神学生たち、つまり学生を中心としたイスラム原理主義であるが、要するに彼らの存在とは、国の中で左翼的な活動を担う勢力として現われている。先進国では、普通左翼として現象する在り方が、いまだに強固な宗教国家では、宗教的な原理主義の勢力として実在するということである。宗教意識がまだ国の中心を担っているよな国、そういう状態の時代にとって、左翼的なものを担う部分とは、宗教原理主義である。宗教原理主義が、完成された近代国家の中では左翼運動として実在しうる部分を担っている。

かつてのヨーロッパの歴史を見ても、やはりキリスト教統治の中では、キリスト教左派の部分というのが常にあったわけで、その一方はキリスト教原理主義の立場にたつ、世直し運動になったのだし、もう一方では、宗教の存在自体を科学的認識の力によって疑いながら、近代的な左翼の体制が立ち上がってくる。マルクスエンゲルスは、若い時代、ヘーゲル左派のグループの中から分岐して出てきたわけである。一方、宗教内に残る人々の、原理主義的な精神というのは、その後どうなっていくものなのだろう。ヨーロッパの国々でも、やはりいまだに、キリスト教原理主義の在り方というのは、各国のそれぞれの流儀によって残っているし、場合によっては、それが国政の中心には一番近い勢力であり続けている。イタリアの場合、そしてアメリカの場合などである。結局、発達した近代国家でも宗教原理主義が生き続ける場合、それは国家にとって右派意識と右派的側面から倫理意識を補強するものとして残っている。

宗教原理主義というのは、いまだに国家の中の倫理的矯正の機能を多く担っている。先進国、最も発達した資本主義国家においても、国民意識の柱となる部分で、やはり宗教原理主義に依存しているというメカニズムは大きいのである。パキスタンからイラン、そして最近アメリカ軍に制圧されたイラクだが、国民にとって倫理的な統合力の核が、やはりイスラム原理主義によって担われてきた。宗教システムとして国家的な統治の構造を見たとき、その急進的な一部が、大抵の場合、原理主義に向かうとはどういうことなのだろうか。

原理主義に向かわず、急進的な革新勢力が構成されうるというのは、近代左翼の形式のことであり、それ以外にはない。近代左翼がまだ発達できない地域では、原理主義が社会の左翼的部分を担っているのである。原理主義的に何物か、体系xに対して依拠するという姿勢が、国家的な統治から人民の生活意識にかけての、倫理意識の支柱を為すというのは、どうやら地球上の人間の持つ政治意識として、歴史発展の一定段階まで、一般法則があるみたいだ。

原理主義は、国家的な求心力か、倫理的な世界性の求心力の中から、それが人々の結集する共同的な運動となっていくや、必ず政治的に発生する。しかし、その原理の体系とは、常に嘘でもありうる。神とは実はいないかもしれないという懐疑は常に起こりうる。ヨーロッパは自らのよく発達した土壌の上で、そういった懐疑を哲学的にも繰り返しているうちに、ついに科学意識の中から無神論の可能性を割り出すことができた。神がいない方の可能性を現実的なものとして受け取ったものは、今のパキスタンアフガニスタンの状況ならば、まず逃走することだろう。それでアメリカ的なリベラルに目覚めるか、あるいは唯物論から左翼勢力の方に接続するかである。

しかし、倫理的な勢力が政治的な数として結集しうる場合というのは、原理的なものが大枠のスローガンとして要求されるという事態は、歴史的に見てどの程度に普遍的な構造だったのだろうか。先進国では、市民の意識がよく成熟すればするほど、その政治から、原理主義的なものというのは、度合いが薄まっていくことになる。最終的には、豊かで成熟した政治の体制において、原理主義的な実在とは、全く意味がなくなる。これはたぶん、歴史の法則として正しいと考えてよいのではなかろうか。

原理主義が、ある貧しさを社会体制として想定したときに、強く力を持つという事がまずあるのだが、しかしアメリカやイタリアでも、やはり宗教原理主義が今でも機能しているということは、どう考えればよいのだろう。

基本的に戦争をやってる国というのは、特に防衛だけでなく、先制的にも攻撃し、自ら戦争を起こしに行く国家というのは、戦争による犠牲者を弔うために、絶対的に国家的なアイデンテティを崇高化するものとしての宗教アイデンテティを強く持たなければならない必然性がある。戦争をやるためには、国家的シンボルとしての宗教でそれを補完し、結果的に宗教の地位は、戦争をやらない国(例えば日本のような)よりは高くなるが、宗教を一定のレベルで高く維持する必然性もあるのだし、そういう国では原理的な構造として、宗教原理主義も要請され続けるのだろうということだ。実際にそういうとき、原理主義者たちというのは、国家における右翼の条件になっている。(アメリカでもイタリアでも)それに対して、イスラム圏の原理主義勢力が、この先どういう展開になっていくのかは、まだよくわからない点も多いと思う。正常にイスラム圏の近代化が為されれば、原理主義はやはり国家にとって右派の部分に収まるのだろうが。しかしイスラム圏の近代化とは、まだまだ時間がかかりそうな模様である。