キリスト教と文化の力関係

ニコラス・レイの作ったイエス伝(1961年の映画『キング・オブ・キングズ』)を見ていて考えたことだが、イエスを巡る神話というのが、集団形成上の範例となり、ヨーロッパにおける文化の基本構造を作ってきたことの意味とは、どういうことなのかということである。集団形成にはまず、根本的な一つの義務が課せられることになる。これは国家の形成にも同じであるが、それは道徳の論理的基礎付けを巡る体系である。善を基礎付けること、道徳を基礎付けることの原イメージとして、イエスの神話とはあらゆる方面から上演されてきたのだ。それはまさに歴史の長きに渡って。イエスとは、神と人間の関係を巡る一つの解釈である。キリストの神とユダヤの神とイスラムの神は同じだといわれるように、神の存在については、常に解釈しきれない残余の部分を持っている。ただその、一つの神であるはずの神の存在について、宗教によって解釈が大きく分かれたということが、西洋の起源にあたる文明構成の分岐する点となっている。イエスによって解釈され伝えられたとされる神のイメージ、そして神の教義とは後に世界史上で支配的な文明を為すことになる民族、国家の枠組みとなった。しかし、ヨーロッパという文明の存在が、世界史上かくも大きな支配的な文明となったという意味とは、それが最初に資本主義を明確化させ、資本主義と貨幣経済の力によって飛躍的に生産力を伸ばした文明であったというところにあるのであって、資本主義を発展させた文明が、たまたまキリスト教の文明であったというだけのことである。

だから資本主義を最初に強化させうる文明であったのならば、それはキリスト教文化でなくとも別によかったわけであって、それがキリスト教の地盤であったということは、世界史を横に並べたときの相対的な結果であり、偶然的な要素である。たまたま地球上の他の文明に比べて、キリスト教文化を担うヨーロッパの文化の方が、資本主義を発達させるのに、偶然合致したというだけなのだ。それは別に仏教の文明でもよかったはずであるし、それがイスラムの文明ならば、イスラム教自体が今の形態よりももっと先に進歩的で合理的な形態を教義として発達させていたことだろう。イスラムでなくキリスト教のほうが先にリベラルの要素を開花させえたのは、資本主義の競争力によって決定された結果であるはずだ。何故なら資本主義は確実に教義自体を変容させうるのだから。仏教の文明も然り。資本主義の発達する速度に合わせて宗教的な教義が自らを合わせうる、変えうる度合いをもって、宗教におけるリベラルの基礎付けというのも果たされてきたはずである。

エスの神話を巡るストーリーとは、しかし何故かくも支配的な権限を長きに渡って持ち続けているのだろうか。いまだに世界史上の決定的な文明とは、キリスト教の文明であり続けている。今起きている大きな戦争としてのイラク戦争とは、キリスト教の動向によって多くの決定要因を持っている戦争である。アメリカで支配的なキリスト教の動きは、イラクへの攻撃を決めていった。ここでイラクを攻撃しなければならないとする戦争の意思決定層にとって、いまだに宗教的要因−キリスト教的な動機とは、どの程度まで入り込んでるのだろうか。現在の戦争を、キリスト教イスラム教の宗教戦争の延長に捉える考え方もある。少なくとも資本主義的帝国に対して宣戦布告をかけてきているイスラム原理主義の攻撃とは明らかな宗教的要因に発している。テロリズムを封じ込めるシステム及び帝国側の戦争の動機というのも、単にセキュリティ上の問題、リベラルな国際国家の連なり形成を妨げる後進的な妄信宗教性の排除ということだけでなく、この大きな戦争において、キリスト教の支持によって生じているイラク戦争の動機形成とは、現在でもどの程度までに認められるのかということである。

アメリカの保守層、政権地盤にもあたるキリスト教原理主義層の側からの動機からすれば、キリスト教はリベラルな性質を根本的に持っているがイスラムはそうではないということになるのだろう。それは、単に資本主義による修正だけでなく、キリスト教の教義、新約聖書の解釈の歴史自体に、集団形成から国家統治におけるリベラルという要素が、先験的に刻まれていたのだということになる。基本的に、他者への寛容を説くという掟において、キリスト教は確かに最初からイスラムよりも原理的にリベラルだったのかもしれない。しかしそれなら仏教のほうがまだ他者への支配欲というのは、キリスト教よりは原理的に廃棄されているのではないか。キリスト教の寛容とは、それが愛という情念に置き換えられることによって達成されるものなので、本質的に他者支配の欲動からはまだ自由になっていない宗教メカニズムを抱えているのだ。愛を超越して無常というところに根拠を高めうる仏教において、他者への感情移入とは、敵としても味方としても、自我の立場からは自由にすることができるようになる。キリスト教内部で行われうることとは、常に疎外論的な逆転の図式であって、それは基本的に支配被支配の図式(或いはサド=マゾの図式)からは、関係性として自由ではないものだ。