サミュエル・フラーの『最前線物語』−戦場の狂気と日常性の戦場

サミュエル・フラーの『最前線物語』を見ていた。フラーにとって、1980年の映画で、もう彼の作った最後の方に近い映画にあたっている。スター・ウォーズマーク・ハミルが兵隊役で出ているが、彼はスターウォーズ以外の作品では殆ど当たらない役者だったので見ていてちょっと物珍しくて面白かった。相変わらず演技は下手だなあとも思えるのだが、そのぎこちなさにおいて共感を持ちうるというか、ヘタウマという感じの演技をする人だなあと思える。フラーは81年に『ホワイトドッグ』を撮っていて、やはり81年にはヴェンダースの『ことの次第』に出演している。ゴダールの『気狂いピエロ』に出演したこともあるが、何か興味深いセンスを持った人物である。『ホワイトドッグ』は僕のとても好きな映画であったのだが、『最前線物語』は、やはりフラーの作品らしく安価な作り、B級な作りで淡々と物語っていくスタイルであって、戦争映画にしてはちゃちな作りで満ちているのだが、映像の中のその微妙な貧しさと薄っぺらさが、逆に、人間的心理の孤独で絶望的な感じを効果的に演出するように出来上がっている。これは凄いセンスだと思う。ちょっと見には中々気付かない、見落としてしまいがちなネガティブなセンスであるが、見ているうちに、なんだこれは、この変な展開は、変な演出は、と演出の文法を外されて見ている者の裏をかかれた怒りとともに、この世界に引き込まれていくという感じである。

フラー自身も第二次大戦で従軍した経験を持ち、彼自身の人生の中でそれは何かのトラウマとして生き続けていたらしくて、平凡に兵隊として戦争に参加する人々が、具体的にどのような狂気と戦場で直面し、またその一回植え付けれた狂気はまず消えるものではなく、狂気の記憶と共存して、人間は実際にはいかに、奇妙な形で生き続けるものなのかを、淡々と具体的に描写している。人間性の平凡で牧歌的な部分と、敵と殺し合うことの強烈な狂気が、簡単に並存して横に隣り合ってしまう戦場の環境にあって、奇妙な記憶や強迫的な性癖をそこで身につけてしまうことが、全く当然で論理的な結果であることがよく理解される。変人、変態的な性癖の人物を戦闘の結果見たとして、それは全く論理的にその人が何故そうなっているのか説明可能なのだ。

人間の環境が、戦争或いは狭義の争い事と共に、常に狂気を発散させている風景とは、フラーにとっては自明の前提である。狂気を日常茶飯事として冷めた目で見遣り、それが自分の身に降りかかってきたときは冷静に処理し遣り過ごしながら、それでも全く無根拠に、そういった散発する死の匂いの横で、人間は生の肯定的な本能をもち、楽しみを持ち、小さな出来事の一つ一つに喜びながら、それらが狂気や死の数々と全く平然として同居しうるという、残酷でありながら平然とし、生に肯定的な力を取り戻しているというところが、フラーの特徴であり作風である。この生の肯定力の無根拠な楽観性において、描き出された世界観が凄いとも思えるし、フラーの映画のマニアックなシンパを呼んでいるのだろう。ただ世界の存在が残酷であるのではなく、そこで生き残るためには、どのような倫理が要請されるのかという具体的なポイントにおいて適確に、内在的に、そのリアルな実践的倫理を、表現させようとしている。倫理が問題の位相を持って発生する場所というのは、残酷さに絶望して自我を捨てることの中にではなく、それでも生き残ろうとする決意性の状況において、そして生き残るということは決して一人だけで為しうるものではなく、そこには他者の介在と助け合いがどうしても必要となるのだというところから、具体的な倫理の位相を、世界の上に表現させることに成功しうるものだ。そこで自己=自我が、生き残ろうとしなければ、倫理とは問題にさえ浮上しないのだ。

描写される戦場の狂気とは、強烈で不気味なものである。映画の中でそれが安上がりのセットの中で組まれている演出であるので、本当にちっぽけで神経質な登場人物の挙動不審、倒錯行動の表現であるのだが、実際の狂気というのも、こういう安っぽさと薄っぺらさと何気なさの中でこそ、リアルなのだという事実が伝わってくるので、背筋の部分にぞっとするような、微妙な日常性の張りつきを感じさせる狂気の演出である。戦争が終わったとよろよろ歩きながら告げに来る敵兵に対して、もうやってはいけないはずなのに誰も見ていないので刺し殺してしまうという、殺傷本能の持続する惰性。明らかにこちらが優位なポジションで銃を構えているのに、隠れていた敵兵を見つけて、そこに必要以上に執拗にマシンガンの弾丸を撃ち込み続けてしまう、反動的な生の殺戮本能の発散の惰性。それでも戦場の住人で出会った女が臨月で子供を産みそうになっているのを見て助けてやり、兵隊が数人で戦車の中でお産の仕事をしてしまうという行動のように、生の本能と死の本能が奇妙に、ちぐはぐに極限状況の戦場という舞台で、入り混じって衝動的に発散され、交差している。この矛盾した有様に一喜一憂してるのが生の具体的現実とでもいわんばかりである。

フラーにとって、この戦場的過程の目的とは、ただ自分が生き延びることだけ、よくあれば自分の友人とともに生き延びることだけなのだ。徹底的にエゴイスティックで単純で動物的な目的意識、そして合理的な世界観でありながら、妙にリアリティに満ちており、フラーはたぶんこの映画を別に、いわゆる反戦の目的の為に作っているのではなく、現実の日常世界というのも、この戦場と似たようなものがあるのだと示しているかのような感じである。戦場でなくとも、日常性自体も大抵は馬鹿なものなのだ。そのようでありながらも、結果的にリアルすぎる戦場と狂気の描写は、もう絶対に、二度とあれを繰り返したくないという反戦の目的には寄与するだろう。それは人間の記憶を、映画的に逆撫でしながら、擁護するものだ。同様に狂気の描写に成功してる映画として、キューブリックの戦争映画『フルメタルジャケット』をあげることができる。しかしこのような優れた戦場映画というのは、もう繰り返せないあの大文字の戦場とともに、日常生活と平和の中にある内なる荒廃した戦場的狂気というのも、狂気の起源として、同様に明らかに焙り出せるものなのだ。フラーの日常細部的な着眼点の具体的な威力に、もう敬服するのみである。