思考の場所

人がものを考えるというとき、それはどこで考えているのだろうか。人は、頭で考えているのか、心で考えているのか、心で考えるということは身体感覚としては胸で考えているように感じることが多い。日常的な事実である。正確にはそれらは脳で考えているのだろうという生物学的な結論は先に出ている。脳で身体の各種情報をとても気がつけない程の速さでもって綜合している。我々の思考から身体反応はそのように体の内部で綜合されているものである。理屈としてはそうである。しかし脳の動きを抽出して見ることはいつも仮定を伴っているし何らかのイメージによって託してそう考えるわけだが、それがどこまで正確に思考という現象を忠実に追えるかは曖昧である。心によって考えていると感じるとき、胸で思いを構成していると感じている。このとき体としての胸にはやはり思考を触発する媒体が何か、何らかの切欠で接続しているのだろう。

抽象的に一言で言ってしまえば、考えるとは脳で行われている。しかしそれだけでは思考のプロセス、思考の構造を何ら明らかにしたことにはならない。それでは思考の具体性とはどこから来るのか?どこにあるのか?それは各種身体部位から、行動の状況に応じて導き出されている。我々は、具体的には、手で考えている、胸で考えている、眼で考えている、耳で考えている、口の運動で考えている、喋っているときには、口そのものが考えているのだ。

脳で思考がなされていると言った所で、それは何も言ったことにならない。思考の具体性を開拓する切欠にはならないのだ。こうして書いているとき、手には手自身で考えているし、物を見ているときには視線は視線自体で眼によって考えている。音楽は耳自体で考えている。思考の具体性を発見し、その表現能力を開発するためには、こうした身体的媒体がそれ自身で動いているのだと知ることが必要である。

今年の三月だったろうか。まだ寒い日の続く土曜日の深夜だったが、僕は池袋でオールナイトのゴダールの映画史一挙上映を見ていた。タイプライターを叩いているゴダール自身の肖像が何度も映像で繰り返される。ゴダールはタイプを叩きながら自分が人生で見てきた複数の映画について回想している、想起して、再現前化を続けている。ゴダールの思考のリズムとは、映画の中で台詞、ナレーションのリズムとは、そのまま彼がタイプを打っているリズムに重なっていく。

そして映画史のパート2だったかパート3だったかで、ゴダール自身の手がアップにされる。ゴダールは、手が映画を媒介すると語っているのだ。別に映画だけではない、すべての表現活動、すべての芸術活動を媒介しているのが、手であり、手仕事だと主張しているのだ。何か僕はそれを見ていて、ハイデガーの哲学を思い出した。

手が媒介する、あるいは手とは思考そのものである。思考の場所とは、それぞれにおいて異なっている、身体、あるいはそこに身体を投影しうるようなあらゆる物体は、人間との関係において、それ自体で思考をはじめる、思考の起きている場所とは、その常々の各部分、各部位にあたるのだ。それが思考の具体性である。

僕は今こうして、ワープロのタイプを打っている。僕はタイプに手を重ねることによって、手で思考しているのだ。この思考の場所は、キーボードと手の相互作用によって生じている、浮かび上がっている、そして眼の前の液晶モニターとの相互作用、効果によって。

頭の中では色々思っている、しかしそれを具体化するのは、手である。思考の具体化とは手作業である。あるいは物を書くという営みにとって、思考の多様性を見出す過程自体が、この手作業にあるのだ。それは批評を書くときにも、小説を書くときにも、同じことがいえる。まだキーと向き合う前の段階では、頭の中に、ぼんやりとしたイメージしかない。断片的な想念しかない。それを具体化し、多様性を発見し、論理的な術定の道を開くのは、この手である。今ここの、手のことであり、それは徹頭徹尾、手の具体的運動である。手がすべてを媒介している。ゴダールは映画史の中でそう説明しているのだ。

小説家にとっても批評家にとっても、思考の具体性とは、手のことであり、手作業そのものである。それはそれ自体の肉体労働を構成している。僕はこの哲学を見たとき、最初はハイデガーの説のことを思った。

しかしこの説は、実はウィトゲンシュタインのほうがもっとよく説明に成功している。ウィトゲンシュタインは思考の場所について問うている。『青色本』にその感動的な件が出てくる。それは抽象的な場所の話ではない。思考の最も内在的な、具体的な場所のことである。

何かを私は考えている。特に手を動かすことによって、そこに、眼の前に言葉の記述を書き付けることによって、連動して思考は物質的な形状を、線状の論理形式を帯びている。またこの思考の場所とは、それがどこの場所で書かれる行為なのか、白紙に向かってペンでか、ネットの中でブログに対してか、掲示板でか、PCの中のひそかな個人的なメモ帳に対してかで、個々の場所によって、書かれるスタイルも異なるし、それは書かれる言葉の運動自体に影響を及ぼし規定をすることになる。

つまり、ブログの書き込みにはブログ独自の場所的思考がそこにはあり、掲示板には掲示板独自の場所としての思考がそこにはあり、チャットルームなら、チャット独自の場所的思考がそこにはあり、それぞれに場所によって規定され、場所によって思考された独自の思考と言葉の流れ、運動が起きる。

まだキーボードを打ち始める前に、思考のイメージとは、曖昧でぼんやりした像である、何だかよくわからない、漠然とした言葉の塊のようなもの、それ自体気分のような意味のわからない塊である。それが形になるのか、それは形をアプリオリに持っていたのか、検証する仕事は、この手である。つまり思考するとは、徹底的に手作業である。

ウィトゲンシュタインの『青色本』は、思考の最も内在的な具体性の次元に、降りてくるのに成功しているかに見える。そしてそれはハイデガーにも、フッサールにも出来なかった技である。しかしウィトゲンシュタインは、彼らの本をよく読んでいる。彼らの問題を熟知している。ただ同じ言葉で語るのを避けただけだ。それは日常言語に即して具体化されたときのほうが、もっとよく理解できる問題なのだから。