知識と意識の間違い易さ

  • 自己否定という物言いがイデオロギーとして流通するとき、基本的にそれはファシズムのものである。それは結果的に全体への服従しか強要しない。端的に、そのような物言いが平気で口にしうる人は、自己矛盾している。自己否定、あるいはキリスト教的なイデーではそれは自己犠牲と呼ぶが、そのような物言いは、単に本当の自己−エゴの在り処について、それが何処で機能しているのかを隠蔽させ、分からなくさせてしまうからである。いわばその物言い自体が、裸の王様であるのだが、何かそういう風に言って見せることで、何かを言っているように見せかける誤魔化しが利いた時代が、近代の一時点、現代の入り口のような場所では生じえたのだ。日本にもそれはあった。
  • 山本義隆のような人物が目立った時代である。60年代という、今の時代を導いてくる入り口の時期にあたる時代である。なぜ全共闘とは後に何も残さなかったのか?という問いの形が、時々交わされているのを目にすることがあるが、これ程馬鹿げた問題設定もない。それは単に社会運動に関しても全共闘的な左翼運動に関しても無知であることの表れでしかない。単に大学の中で全共闘という言葉の看板を掲げるということがなくなっただけで、運動の形式から、運動の内実、そして人脈に至るまで、全共闘の時代と同じもの、同じスタイル、同じ人というのは、よく見れば今ある左翼運動の勢力とそのまま繋がっている。特別そこに切断があったわけもなく、同じ人々が、やはり似たような事を同じ方法でずっと続けてくることによって、日本では全共闘の60年代から今の2000年代まで明らかに、左翼運動とは継承されてきている。そこに「後に何も残さなかっ」たような断絶があるように言う人は、単に無知で無教養であるだけである。左翼の体質とは、別に全く変わっていない。また別に変わるすべもないだろう。左翼とは常に、どの時代でも自然発生するものだが、何処で発生したものであっても、それが一定規模の形まで大きくなれば、大体左翼運動としての一般傾向として、自然発生的に同じ形態に落ち着いていくものである。
  • キリスト教的なイデアの正体とは、本質的にはファシズム−つまり全体主義に寄与するものになった。それがキリスト教的メカニズムの結果として見出されたことは、20世紀の戦争で明らかになった事態である。それまで、キリスト教システムの内部からも、資本主義的視点という外部からも、認識論的な科学の立場からも、キリスト教的傾向性の危険性については、なかなか明瞭に解明できなかった。ニーチェフロイトのように、そこに直観的に気が付いてるものはマイナーに存在した。*1個体化の原理の中に罪を−原罪性を見て、呪詛し、超越しようとすることが、結果的には全体主義体制を呼び寄せてしまう。それはキリスト教の持つどうしようもない内在的衝動である。近代以前から、最初からもちろんキリスト教とはそのようなものであったが、近代的な戦争の現実、20世紀的な戦争の時代を経るまでは、その具体的なメカニズムを曝け出し、明らかにすることはできなかった。*2

*1:もちろん歴史的事実としてニーチェの言葉が結果的には、ナチズムを促進するイデオロギーとして利用されたという現象については、後に詳しく語る予定である。

*2:もちろん、第二次世界大戦の後に、キリスト教の立場から、その傾向は深く反省されることになった。イタリアのファシズムとドイツのナチズムはキリスト教が深く貢献することによって成立したものだ。またそれはキリスト教システムのもつ内在的必然性として不可避的な結果だったのだ。結果としてカトリックバチカンに移動し、政治的な影響から一切り離されたところで、世界のキリスト教を全体統轄するための場所になった。今のローマ法皇が少年時代にナチスの少年団にいたという事実は、本人も明らかにしているし有名な話である。当時はそれが普通で日常的であったのだ。20世紀中盤のこの過程を経て、宗教と政治の分離は、先進国社会では明らかなものとなり、各国で取り計られるようになった。キリスト教がかくして第二次大戦の後始末として去勢された後は、宗教の代わりを担うものとして、一時は共産主義運動も浸透したが、やがて共産主義にしても、政治と経済の分離として実体的な効力は喪失していく。象徴的な事件は80年代のペレストロイカであり、その後ベルリンの壁が解体してからは、イデオロギーは経済及び実政治の領域からは完全に分離していくものとなる。中国の国家がとる、露骨な政経分離体制としての経済政策はそれを明らかに示す。