意識と革命についての誤配

  • 革命について、誤った考えとは何だろうか。それは、革命的であると云う事を、遊戯を排することと考えてしまうことである。(要するにこれは60年代の時点から明瞭にある問題であるのだが、ゴダールの逆を行ってしまう事である。そう行ってしまう事を革命だと勘違いしてしまうような人々の意識の傾向のことである。)あるいはこういうこともできる。快感原則を排除することを革命だと考える、自己充足を否定することを革命だと考える、そのようなイデオロギーが、革命に関する間違った観念であり、歴史的に誤謬を作り続けてきた。それはこんな感じだ。

遊戯を廃して、そこを主体性、あるいは労働に置き換える。
没主体的個人を糾して、主体的個人に置き換える。
無意識を無自覚と告発して、自覚の論理に置き換える。
快感原則を排して、主体性と労働、そして義務の観念に置き換える。
自己充足を排して、自己否定に置き換える。

  • しかしこれらの中には、いずれも自由は存在しない。むしろそっちの方が自由だと思い込むことによって、意識の固着した錯誤が生じている。これらが革命を巡る完璧な誤解であることは、歴史を見ても明らかに説明できる。我々は革命を巡るこれら誤読の束について、それを正すべく証明を示していかなければならない。人間とは、惰性態であり、なかなか学ばないものである。いつも同じ誤り、同じ錯覚を繰り返している。そこにあるxを取り逃がすことによって、主体に縋っている。しかし主体の外部に、自由の根拠があることを見るべきである。それは無意識の領域であり、自己充足する実体であり、快感原則であり、快感原則によって導かれる自律的運動とは、遊戯である。
  • 労働というのが人間的に本質的な行為として抽象化された考え方とは、ヘーゲルに責任がある。もちろんヘーゲルは近代システムの確立という必然性に即して、それを根拠付ける体系性を編み出したのだ。ヘーゲルの労働観念と主体性の規定の前の段階には、カントによる義務の観念の提示があった。カントは人間的な営為を、義務と目的の観念の統一として捉えていた。それがヘーゲルの段階になると、労働と主体性の統一という形になって出来上がった。近代システムの内在的な目的意識は、かくして最高潮の段階を迎えることになったのだ。
  • ヘーゲルの労働観は、マルクスに読まれることによって、結果的には近代における次の時代段階を深く支配するものとなった。マルクス主義共産主義として解釈された労働観念の展開は、マルクスの与えたヘーゲル的労働観の転倒としての自由を裏切ってはいったものの、近代システムの突き進んだ内的衝動のもつ宿命として成長し、遂にはそれによって規定された労働自体が人間自身をも裏切るという限界にまで進んでいったものといえる。近代システムの主体への内面化とは、ヘーゲルをその頂点にするも、人間と自然の関係を結果的に裏切るものとなった。
  • 結果として、遊戯の廃棄、快感原則の廃棄、自己充足の忘却がイデオロギー的に進行し、代わりに置き換わった意識が、労働の信仰、主体性の支配、自覚の帝国(覆い尽くし)である。そのような傾向を指して総じて疎外論と呼ぶこともできる。自己疎外された対象が、自覚の立場によって取り返されることによって、世界性としての一体性が獲得されるとする自己意識の立脚である。そういった傾向の行き着く先にあったものが、資本主義システムとしても、近代的キリスト教的統治としても、裏を返した共産主義国家の形態、共産主義運動の実態としても、いずれもやはり、言葉の正しい意味でのファシズムの完成へと向かい、自己否定という全体奉仕のイデーによって、マクロなレベルからもミクロなレベルからも、左翼の立場からも右翼の立場からも、先進国の中からも後進国の中からも、ファシズム的形式の生態が生じることとなった。上の立場からも下の立場からも、何故だか人間は真面目になればなるほど、ファシズム的になっているのだ。そういう悲劇的な現象が生じた時代があった。20世紀的な現象である。