ゴダールの『ワン・プラス・ワン』

  • ゴダールの『ワン・プラス・ワン』は、ローリング・ストーンズのレコーディング風景を追いながら、間に革命運動の実在を巡る抽象的な描写を散りばめていく。それは1968年という時代をリアルタイムで描写する映画となった。時代的な革命運動の風景を幾つかの側面から切り取る、それをストーンズのスタジオセッションの中に延々と絡めていく。ストーンズが演奏を続けるのは『悪魔を憐れむ歌=Sympathy for the Devil』である。この一曲について、スタジオの中で試行錯誤のセッションを繰り返し、曲が出来上がっていく過程を収めている。ゴダールにとって、何故それがストーンズであり、悪魔への同情なのであろうか?
  • 黒人小説を超えて、というチャプターで、ブルースの起源が朗読される。黒人音楽の搾取の上に、白人達は彼らのロックンロールを構築した。ローリング・ストーンズの起源にあるのは、黒人音楽の搾取である。いまストーンズは、立派なスタジオの中で、悪魔をテーマにした曲をレコーディングしている。スタジオに出入りしているのは、背広を着たレコード会社の社員達で、みな白人である。一方、大きな河にかかる橋の下では、自動車のスクラップ場の陰で、黒人革命組織の集会が為されている。このイメージの対比の中から、ゴダールの60年代的な実験手法、即ち「ワン・プラス・ワン」の方法とはスタートする。
  • 橋の下で屯する黒人達は武装組織のメンバーである。黒人たちの手に握られているものとはライフルである。それは当時のブラックパンサー党のイメージにも見える。サブカルチャーの書店では、白人のマオイスト達が学習会をしている。緑豊かな森の中で、白人女性の映画スターに向けて延々とインタビューが繰り返される。彼女は性と政治の革命を標榜している若いスターである。黒人組織の秘密集会では白人女性が連れてこられて、黒人の手によって処刑されている。十字路に立つ壁に落書きがされている光景、それはCINEMARXISMと書かれている。もう一方の壁の光景では、SOVIETKONGと落書きされている。
  • ワン・プラス・ワンとは、このようにゴダールにとって実験の方法である。それは、シネマ+マルキシズムであり、ソヴィエト+ヴェトコン、と足し算で合成を繰り返すことによって、連ねていく。60年代に先進的な資本主義国にあった革命運動のイメージを、ゴダールはコラージュして集めていく。特にゴダールが取り上げているのは、武装集団であり過激派のイメージである。革命の名によって行われる暴力のイメージをシュールに抽象化して練り上げていく。ブラックパンサー的な黒人たちの武装組織、白人の青年達=子供達にとってのマオイズム。革命的な悲哀としての暴力の描写と、そしてストーンズである。そして性の革命のイメージがシンボリックな女性スターの存在とともに、政治革命のイメージの上に重なる。サブカルチャー専用の本屋のブティックには、当時革命的な井出達で登場した様々なポルノ雑誌が並ぶ様が描写される。しかし白人の若い女性数名が、黒人のルサンチマンによって、処刑されていく。死んで倒れた白人女性の闘士が、ライフルを手にしたままで宙を舞っている。これら左翼過激派組織の、残酷さといい加減さ、更には中味のなさについて、ゴダールは容赦なく、かつ淡々とコミカルな描写を連ねていくのだ。
  • 悪魔への同情、あるいは悪魔への憐れみが、これらワン・プラス・ワンの結果にあたっている。キース・リチャードがブルースのカッティングを、渋く歪ませたアンプの音で延々と重ねていく。キースのギターにプラスして被さるものとは、チャーリー・ワッツのタムで低音のリズムであり、コンガの音である。スタジオのレコーディングにて、出来上がった音源の上でボーカルを録音する。ミック・ジャガーが悪魔の紹介文を歌い上げる、その横ではスタジオのメンバーが勢揃いし、最後に、フーフー、と悪魔に同情するコーラスを被せる、ひたすら、フーフーを繰り返していく。Pleased to meet you/ Hope you guess my name/ But what's puzzling you/ Is the nature of my game/ 君と出会えて嬉しいよ。僕の名前を当ててごらん。君を悩ませてるものの正体とは、僕のゲームでは自然の成り行きさ。
  • ワン・プラス・ワンのゲームは、この通り、到達不可能の自然へと難着を続ける。その悪循環は何処で終焉し引き返していくのだろうか?最後に、青い海と白い砂浜の上では、ライフルを手に倒れた白人女性闘士が、ぐるぐると宙を舞い、旋廻を繰り返している。横ではゴダールのチームがそれを映画として撮影しているだけだ。・・・映画を撮っている人々だけが、もう実験が終わっていることを知らないのか?それは革命を標榜した遊戯の一部始終であったのではないか?そんな疑いが観客には過ぎるだろう。いや。それでもやはり、ゴダールの方法論にとって、実験とは絶対的であり、それしかないのだ。ゴダールの結論とは、やはり実験の絶対性によって突き進むことである。実験とゲームはこのように、容赦なく進む。それが映画であり、その外部はない。遊戯が悪いのではなく、遊戯の外部はなく、むしろそこには遊戯しかない。遊戯そのものが生であり、革命なのだ。そこを勘違いしてはならない。そこがゴダールの為す最も肝心な警告である。
  • 死んだ白人女性の闘士のイメージが、シンボルとなって我々の脳裏を舞う。彼女の殺られた姿とは、革命ゲームの犠牲者でもある。またそれは彼女の自業自得でもある。彼女の存在は何処にも落ち着いて弔われないままに、旋回しながら空中に舞っている。ゴダールはその姿をカメラに収め続ける。実験とは進行していく。彼女の向うに見えるものとは、ランボーの見たものと同じ、太陽と青い海だ。