マルクスの『私有財産と共産主義』(1843年)

  • マルクスの『経済学・哲学草稿』と呼ばれる著作はマルクスの生前には発表されていない。それは1930年代にモスクワのマルクスエンゲルス研究所の編纂によって始めて日の目を見たものである。実際に書かれた時期は、1843年頃だと考えられている。この時点でマルクスはまだ25歳である。「私有財産共産主義」とは経哲草稿の中の第三草稿の中にあるノートである。このノートの特徴とは、ヘーゲル弁証法の発展過程を、唯物論的に展開する歴史過程としてマルクスが当て嵌めることによって、ある線状の解釈を作り出している。ヘーゲルによって示された人間的労働を回収する全体とは、ここでは国家でもなく絶対精神でもなく、「資本」である。もちろんこの資本とは共産主義と世界史的展開によって乗り越えられていくものだと、マルクスによって示されている。無所有と所有の分離という現実を作り出したものの正体とは何か?ということについてマルクスは歴史的に、物質的な過程から説明をしようとしている。
  • マルクスにとって「無所有」とは何を意味しているのだろうか?そしてそれに対立するものとしての所有とは何を意味し、何を指示しているのか。考えられるのはまず、文字通りの所有−無所有である。マルクスはこの時点でまず、無前提に所有と無所有を対立するものとして捉えて示している。しかし現実には、所有と無所有とは別に対立はしていないともいえる。無所有であるものには、まず人間として最低限度に保障されるレベルに所有を確保されるべきであって、純粋な無所有とは架空の話でありフィクションに過ぎない。
  • 人間の実在とは、まず何らかの形で必ず所有を伴う。個人のこの身体というものも、個人にとっては所有の条件である。故に身体的な条件、豊かさまで、人によって個々の違いがある。知力や才能もまた個人的所有に属する。それは個体の身体と精神にとって外的で物質的な所有物といったものの以前に、まず個人的差異であり、個人的な属性としての所有性として現れるだろう。*1
  • マルクスは、私有財産止揚されて解消されていく過程が共産主義であり、歴史の進化であり、いい意味での発展であると考えていた。それではマルクスは、どのような意味で「私有財産」という意味の本質を捉えていたといえるのだろうか。まず字義的な解釈として、文字通りで表層的な意味での、個人の身体にとって外的で物質的な所有物として私有財産の事を指すということが考えられる。しかし人間の人間的生活、社会的生活にとってそのような「私有財産」、物質的な所有条件とは、どのようなケースでも個々人の生存と存在にとって不可避で不可欠なのであるから、マルクスの言いたかったこととは、この私的所有物の、量的な格差の事を指して、私有財産止揚と呼んでいたのだと考えられるだろうか。
  • 個人の日常的生活には、必ず一定の限度の外的所有物は伴う。故に個人の現実的生存にとって、私的所有それ自体が廃棄されると云う事は、どのような社会条件であってもありえない。だから、「私有財産止揚」ということが言われるとき、それは格差の止揚ということを云うのが、そこにある肯定的意図なのだと考えるべきであるだろう。個人の内的な所有、即ち個の身体から能力、才能までが所有の成果であり一部であると考えれば、所有とその個的な差異とは、全く一般的な現象であるということになる。
  • このような能力的な人間の存在について、マルクスは、その存在とは社会的なのだという説明をしている。人間的な感性、例えば音楽の能力などは、社会的な本質によって培われているものであって、人間と自然の統一とは、社会的なものとしてのみ現れるというのが、マルクスの意見である。私的所有としての在り方は、この社会のうちなる統一性をまだ疎外していると考えることが、要するにマルクスの論点になっているのだろう。

このマルクスの論点は、どの程度までに正しいのであろうか?またどこが間違っているのだろうか?

*1:これら個人の能力的な豊かさの差異が、個人の偶然的に置かれた物質環境の優位不利に左右されて生じているのだという話は、とりあえず置いておくとして。