私的所有の幾つかの段階

  • 一九世紀のマルクスの段階においては、所有における様々なレベルが、まだ混同されているのだといえよう。私的所有と呼ばれうる条件について分類をしてみよう。

1.個人の身体に対する外的な物質としての所有すること。−身体外的条件
2.個人の身体的な構造から能力まで、個人の肉体的特長としての個的所有。−身体内的条件
3.個人の能力や、個人的な知力、才能としての個人の属性として見られる、個的所有。−精神的条件。
4.個人の精神的な要請、渇望としての、対象的所有への欲望。それは個人にとって、アイデンテティ、精神的な同一性としての存在の安定に関わる。徹底的に精神的な要求としての自己−対象性、としての所有、所有感。−存在論的欲求としての条件。

  • これらを私的所有を巡る四段階としよう。このうち、1.としての個人の身体外的条件としての物質的所有を、均等化すれば、人間にとっての疎外された条件が克服されるるのだろうか?マルクスが「私有財産」ということによって特徴付けた私的所有の内容とは、この1.にあたるものである。しかし、身体外的所有物の格差によって、2、3、4の条件、即ち個人にとっての実質的な満足と充実を条件付ける内容が、すべて説明されうるわけでは別にないのだ。
  • 唯物的な下部構造から、上部構造に当たる文化的形態と精神的条件を決定しうるという思い込みが、単純であるが故に誤謬を生んできた唯物史観の失敗した解釈である。時代にとっての人間の生態にとって、精神的な内実の貧しさが彼らの物質生活の格差と経済関係の歪さから基礎付けられて来ているのだと見ることは、マルクスによって主張され、その考え方自体は一九世紀の当時において一定の啓蒙的役割は果たしただろう。しかし、マルクスが自分に先行する認識論的条件に与えた逆転的な捻り具合について、またそれが後からマルクスを参照することによって固定化されてしまえば、マルクスの言った批評性も意味を失う。物質的な条件の優位によって精神的な人間の内実を了解できてしまうとは、結局単純な解釈にしかならない。物質的な条件と精神的な条件は、人間にとってやはり並行して存在している。硬直化していく唯物史観の流れに対して、上部構造のほうから下部構造の実態を説明しなおすという逆転が、マルクス主義の内部ではグラムシあたりの段階から起きることになる。経済関係によって文化的な次元を還元してしまうことはできないということが、そこで改めて確認されることになる。物質と文化の関係にとってヘゲモニーの地位が逆転する。また、精神的な次元の自律性、優位性を、マルクス主義から離れたところで、もう一度別のレベルから、科学的なレベルで位置づけ直そうという思潮はフロイトによって起きてくる。
  • 下部構造によって上部構造の存在は説明が尽くされないのと同じように、身体的な条件から精神的な条件がみな把握できるわけではない。人間にとって外的な条件によって内的な条件は説明され尽くされない。むしろ、精神的な条件を身体的な条件に還元してしまおうというやり方は、その強引さによって必ずや誤謬をうむだろう。人間の私的性質、及び所有の性質についても、やはり同じことが言える。ここがマルクスの段階ではまだ明瞭になっていない、分離されて考えることができていなかったのだ。物質的な経済関係によって、私的所有の性質がすべて説明できてしまうかのような錯覚を生む。しかし私的所有とは、人間の存在論的次元に、もっと根本的なレベルで「憑かれている」ものだといえよう。フェティシズムとしても、名誉を求める構造としても。

マルクス私有財産の性質について、次のような観点から説明付けようとしている。

私有財産は、外化された労働、すなわち外化された人間、疎外された労働、疎外された生活、疎外された人間という概念から、分析を通じて明らかにされるのである。 たしかにわれわれは、外化された労働(外化された生活)という概念を、私有財産の運動からの結果として、国民経済学から獲得してきたにちがいない。しかしこの概念を分析すると、ちょうど神々が本来は人間の知性錯乱の原因ではなく、その結果であるのと同様に、私有財産は、それが外化された労働の根拠、原因として現れるとしても、むしろ外化された労働の一帰結にほかならないことが明らかになる。のちになってこの関係は、相互作用へと変化するのである。 私有財産の発展の最後の頂点に来てはじめて、私有財産のこの秘密が、すなわち一方では、私有財産は外化された労働の産物であり、他方では、それは労働がそれによって外化される手段であり、この外化の実現であるということが、ふたたびはっきりしてくる。
『経済学・哲学草稿』第一草稿 疎外された労働

  • このように私有財産とは、外化された物質的な形態であり、個人にとって物質的な所有の形態である。この形態は、他人の労働の蓄積という形で、個人の手元には帰ってくるのだというのが、マルクスの指摘である。つまり私有財産の実質とは、マルクスに言わせると、他人の労働であるというのだ。*1しかし、このような物質的外化としての私有財産と、私的所有の一般性という次元を混同してはならないのだ。私的所有を巡る精神的で感性的なセンスとは、私有財産を巡る社会的な想像の層、即ちフェティシズムの結果ではあるのだが、しかしだからといって、私有財産の物質的性質から、私的所有の精神的性質のすべてが説明できてしまうわけではないのである。
  • 精神的な欲望としての私的性質、私的所有とは、人間社会の構造にとって、もっと根本的なレベルから出てきているものである。それは人間の生態にとっての、私性への意志、といったものが何処から出てくるものなのかを見ることになる。私性、即ち自己同一性の確保、アイデンテティの発生とその機能とは、単に私有財産止揚と再分配などというレベルとは、また別の次元で、社会的な無意識的構成としての人間のそれぞれに、要請されている次元、社会的な機能としても、個の私的な欲望としても、湧き出てきてやまない次元であるはずなのだ。だから私有財産止揚して再分配すれば、この私性への意志としての私的所有の問題をも、社会構造として解決できると思ってしまうほど、単細胞な誤謬もない。
  • 例えば、マルクスはまだナルシズムという概念を知らない。ナルシズムという次元から、人間的生活を説明するためのイデアは、経哲草稿のマルクスの記述にはまだありえないのだ。マルクスは、ナルシズムと個体の関係ではなく、経哲草稿においては、「類的人間」という概念によって、人間的本質を説明できると考えている。

*1:ここには「所有とは盗みである」といった、プルードンのエッセンスがまだ色濃く共有されている。しかし想像してみるだに、所有は盗みであるという少々は大規模だった思い込みにより、自己所有を無にしながら社会主義運動に取り組んでいった気の遠くなるような人々の層の流れというのは、歴史的スパンにおいてある。社会主義者によるそういった自己犠牲の類でも、宗教的な殉教にしても、歴史というのは辛くなるような地層の積み重ねの上にある。しかし最もよくないのは、そういった犠牲の数々を美化してしまうことではないのか。