ダーウィンとマルクス

進化論を明らかにしたダーウィンは、マルクスから唯物史観の着想に寄与したとのことで資本論の第一巻を献本されたというエピソードがある。もしかしたら微笑ましいエピソードだったのかもしれない。ある種の伝説でもある。しかし当のダーウィンのほうであるが、一体どういう気持ちでそれを受け取ったのだろうか。これはちょっと想像してみたくなる事柄だ。ここでマルクスダーウィンの間に、実は奇妙な関係が生じているのではないだろうか。それはマルクスがまだ共産主義社会の未来について楽観的な観測をもっていて、自分が書いていることの傾向性とダーウィンの述べていることの傾向性の食い違いについて、何かが気がついていなかったのではないかと考えられるからである。

哲学者としてのダーウィンを捉えなおしてみたときこれが相当面白いのだ。ダーウィンは19世紀のイギリスにて「種の起源」を著すことによってキリスト教の世界観と対立した。地上に存在する諸々の動植物について、神が個々のものを作ったのだという信仰が支配していた。それは個々の生物とは個別にそれ自身のために創造されたのだという信憑性だった。それに対してダーウィンは個々の生物種とは、最初はみな単純で下等な生き物だったのであり、そこから変異によって系統発生し個々の新しい種として、長い時間をかけて分岐してきたものだと表現したのだ。変異によって長い時間とプロセスを経て、このように現在の種が明瞭な形態として発展してきたことが、生物にとっての進化である。そしてダーウィンにとって進化の契機となる変化を作り出すものとは「Natural Selection」であるということになっているのだ。「Natural Selection」には日本語では二つの翻訳が当てられている。自然選択と自然淘汰である。進化の契機となるモメントとは、生物の交配合の過程における自然選択なのだ。

それではダーウィンを読んでインスピレーションを得たマルクスにとって、社会が進化するイメージとはどのようなものだったのだろうか。マルクスは予言した。資本主義から社会主義的な革命運動のプロセスを経て、人間の社会とはやがて共産主義社会へと進化する。しかしマルクスにとって、その社会が進化するときのモメントとは何だったのだろうか。

ダーウィンによれば、進化のモメントとは自然選択=自然淘汰なのである。まだマルクスの想像の段階では、いらなくなったものが自然に朽ち果て、真に必要とされる社会の構造的な要素の民衆的な要求として、資本主義システムは共産主義に、自然発展として取って代るだろうということだった。ところがここで、マルクスは左翼の性質についてその本性を見誤っていたといえる。それは現在の社会において、左翼というのが具体的にはどういう拡がりをもって生態しているものなのかということを考えたときによく見えてくるだろう。現在では左翼の現実的生態性とは、自然淘汰的な進化論的志向とは、明らかに逆の在り方において実在しているものだからだ。そして左翼が社会的に「正しく」存在しうるとき、それは必ず進化主義的な自然選択の原理とは異なる、むしろ自然選択の原理に反逆する形で左翼が存在しているという事実である。

19世紀のこの当時、マルクスはまだ左翼とは進化主義と矛盾しないと考えていたのだ。現実の左翼とはどうだっただろう。左翼とは大体において二つの相対する傾向性を最初から、矛盾を抱えながら孕んでいるものだ。それは進化主義によって左翼革命が実現されると考える傾向の派と、逆に進化主義によって人間たちの中で自然淘汰されることを防ごうとする傾向の派である。進化主義によって自然淘汰されることを防ごうとする左翼の傾向とは、必然的に人権主義的になり、人々の間では平等を要求し、この世に生まれてきてしまった存在であるからには、無条件に我々の生存を肯定せよという要求の仕方になる。それに対して進化主義によって「より優秀な社会」へと導入していくことを革命だと考える派は、必然的に社会運動の手法においてマキャベリズム的なものを帯びてくることになる。

20世紀における左翼運動の歴史について振り返って見ると、そこでは進化主義としての左翼革命運動のほうが優勢な時代であった。20世紀においてまず革命運動とはボルシェビキによって示された。進化した人間社会そして国家への道筋とは、前衛党によって啓蒙される計画的な経済政策に則る共産主義建設であるとそこでは宣言された。実際その後ソヴィエトロシアより拡散した国際的な共産主義国家樹立の運動とは、理想社会のために理念的な定言命法を建前とした、人口政策的な淘汰主義による共産主義国家の建設であった。ダーウィンの言った自然淘汰によるというよりも、実際にそこで行われえたのは人間的意識の楼閣に基づく人工的な淘汰性=粛清性に基づく全体性建設だったにしろ、それは自分達は進化的なのだという自己意識と主体性による社会建設の失敗だった。それは計画経済と計画国家による、自然を取り損ねた失敗である。自然を取り損ねるとは即ち自由を取り損ねるということである。

そして21世紀になった今、左翼のあり方とは、これら過去の失敗を踏まえている。左翼運動がそこに潜在的に内在させてしまうところのプレファッショ的な要素、道徳を名目にした監視共同体的な傾向を外すためには、左翼は進化主義的な人間淘汰のイデオロギーの発生に対して常に自己警戒的にチェックしていかなければならないという教訓によって成立している。もう二度と左翼の中からファシズムを起こしてはいけない。そのためにはどうすればよいのかという自己免疫によって現在の左翼運動のあり方が決まってきた。結果としてどうなったかというと、左翼は進化主義的な傾向性に対立することによって生態をもつようになったのだ。そして実際の左翼とはどういうスタイルによって収斂されるようになったのか。資本主義を嫌い批判するという傾向は、原始的な時代の人間共同性を賞賛しようという新しい部族主義的な共同性の持ち方として(トライバル)、左翼的な共同性とは生態を持つような状態になった。彼らは進化よりも、「人間」のイメージを優先させてそれに同一化しようとする。あるいは彼らのイデーにとって、進化とはこの「人間」のイメージになることだと思い込まれているのだ。その人間のイメージとは最も単純でわかりやすいものであって古代から人間にとって本来的に備わっている部族的な友愛の共同体だというイメージになって広がる。プリミティブなものに回帰せよ。それが「人間」である。・・・そして今、進化論的な思考とは殆どネオリベラリズムのものだと思われている。ネオリベラリズム的な社会淘汰のあり方が、進化論的な社会イメージの行く末であるかのようである。現在の左翼は社会学の立場から、それらを社会ダーウィニズムと呼んで糾している。

マルクスダーウィンについて読み込んだときの左翼のイデーから、今の現実の左翼のあり方とはもう相当に異なっているのだ。あえて今でも左翼を進化論の立場から主張することを維持しているものとは、実は柄谷行人ぐらいしかいないものだ。柄谷行人がNAM原理によって、市場の自然選択の原理の力によって国家と資本を消滅させようという論理を語ったとき、まだ柄谷行人においては左翼をダーウィンの進化論=自然選択の立場から語ることが維持されていたのだ。そして柄谷行人においてもまた、過去の進化主義的左翼のやった失敗と同じ問題が再生産されたのだといえる。