「公が善である」とは、どういうことか?

社会にとって、意思決定を大枠で為す決定のプロセスとは、自然に出来上がったものとして大まかな形を所有している。それは社会に生きる個人にとって、「公」の領域と「私」の領域を、うまく繋げながら横断するものである。何が善であるか悪であるかを決定するプロセスとは、置かれている場所の環境に依存する。しかし、社会的プロセスを巡る発生的な構成が、インターネット以前と以後とでは、明らかに構造的な変化をもたらしているという事情はある。公的領域のコンセンサスの過程が、それは契約的なものというより無意識的過程に存するものとしても、ネット環境のもたらす無自覚的な影響性は、もう無視できないものとして我々の周囲を取り巻きつつある。ネット社会は、公と私を巡るそれまでの関係性を、変えてしまったのだ。この、公に侵食される私の実態、私に侵食されている公の実態という、奇妙な現象性について、次のブログ記事(id:essaさん)は説明している。公とはネット環境的な「自然」を代弁しているから善とされるのだが、しかしそういった話は何処まで正しいのだろうか?

■ 「公」というものを制御不能であるけど善なるものとして認識する

20世紀の技術や社会経済的な構造は、私的領域を拡大するように作用した。だから、公的領域の侵蝕が問題となったのだ。それと逆にネットはトレンドとして公的領域を拡大するように作用する。プライバシーは暴かれ全てが晒されていくのだが、誰もが平等に晒され、晒されたプライバシーを私的に悪用することは難しくなる。悪用されないことが確実に保証されると仮定して、どうしても守るべきプライバシーとは何なのか。公的領域の拡大に備え、それに適応する準備をするとともに、どうしても守らなくてはいけない私的領域とは何なのか、そこを考えておくべきだと思う。

もちろん、絶対必要なプライバシーというものはある。それを守る為には適切な範囲設定が必要であり、適切に境界線を引くためには、公的領域が拡大しているトレンドを背景として考える必要があるだろう。我々が「公」という言葉で思い浮かべるものは、20世紀的な私的領域の論理に侵蝕された「公」であり、実はそれはむしろ「私」なのである。新しい「公」は本物の「公」であり、別の論理によって動く。「私」が持っていた悪の性質は持ってないが、同時に「私」が持っていた制御可能性も失っている。制御不能な善である「公」というものにどう備えるのか、という問題だと思う。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20070618/p1

私と公の価値の在り方とは、ネット以前と以後ではもう変わってしまった。どういうことかというと、特に、公の制御不能性が、ネット社会によって、より強固なものとして現われてしまった。しかしそれが手放しに素晴らしいものとも、とても言えないと思う。公の領域の制御不能性とは、また別の角度から見れば、目に見えない、大抵においては愚かな場合を含む、権力の制御不能性ということにも当たるからだ。公=善の単純図式を破壊するためには、もちろん、私=善の単純図式も破壊してからかからねばならない。

そもそも、「公」が善になるとはどういうことだろうか。そこでは結局のところ、正当性の基準とは、みんなが言うからそれは正しい、という話に収斂していくものとなるだろう。何故それは支持されているのか?社会的に、と問うていく事は、そこに対象が支持されているだけの必然性が生じていることを見るものになる。しかしそれはどのような必然性なのだろうか。

公という決定機構の特徴とは、多数決であるか、選挙で確認されるか、市場で売れているかどうか、といったところで示されるものになる。それが公として機能している、スコアを稼いでいる、支持が数値として出ているということは、社会的に物が存在しうることの、何かの側面での客観的な法則性を見出すことができるというにすぎない。ここで、「私」は善ではありえないのか。私よりも公の方に分があるとすれば、それが客観的な自然の法則性を、何らかの形で、意味しうるからである。私の領域とは主観の領域であり、妄想も含む。妄想は個人的な使用である限り、それが問題化することもないかもしれない。しかし「私」には客観的な基準がない。客観的な基準と共有しうるモジュールを何らかの形で必ず含み、社会的な検証−承認の過程を通らざる得ないものとは、公の領域にあたる。

しかし、その公が実際には、間違いをも含んだまま機能するものであるという事実は、どう捉えればよいのだろうか。もし公の領域が間違いを含むものでなかったら、人々は過去の歴史を反省することもないだろう。なぜあの戦争は防げなかったのかとか、ファシズムの大衆的支持とは何故おきたのかとか。公だけでは、人を決して満足させない。公の度数が高いものが正しいというのなら、現代的に見て、それは最も売れているものこそが正しいと云う事になるが、それでは表面的で実質的な権力の論理を反芻しているというのにすぎなくなる。みながそういうから正しい、他人がそういうから正しい、ということをひたすら同語反復で連ねていく。

公権力の様々な様態から自由になりつつ、その向うにある客観性に到達する、そしてそれを表現するというのには、公の力関係の向うを、個人が見ることのできる立場を構築しなければならない。公に対立することとは、別に真実を生産する力を曲げないのだ。あるいは、個人が「正しさ」を生産する力のことである。

公が善であるという事実とは、実際には社会的な力関係の基準から導かれているものである。公が基準を強制しうるのは、最もそれが権力に近いからである。権力が公の領域に生じうるのは、それが客観的合理性として一定の正当性を持つものだからである。何らかの形で相対的に優位な正当性を対象が持たなかったら、それは公のポジションを取れない。公のポジションを取りうるというのは、権力としても正当性を確保するという事である。権力が、公という領域を媒介して、正当性として、善と悪の区分を決定する、可能にする。これは社会にとって不可避的な構造である。

ニーチェは、社会にとって、善と悪を決定しうる最終的な審級を、権力の位相においた。それは何故、公なのか?それは権力に近いから公であり、正当性であり、つまり善なのだ。この権力関係の向うに、何か神学的善悪とか人間的善悪の基準が存在すると見てしまうことは、錯覚であると示した。基準を決定する起源にあるのは、力である。つまり善悪基準が先にあって物事が決まってくるのではなくて、基準という意識に先行しているものとは、力なのである。(力=関係)現代社会では、この権力を決定する基準が、いささか複雑な様相を示している。権力が、民衆的な支持によって、成立しているという見せ掛けをもつからだ。

実際に、権力の背後に、何か権力者なる、主体の姿があるわけではない。ただ発生的な「支持」のシステムが、主に資本主義的な市場を媒介にして、自然現象として決まりうる、均衡のシステムを社会が保持しているから、そういう物事の決まり方ができるのだ。これは社会にとって正当な意思決定のプロセスとして完成されているものでもある。民主主義のシステムのことでもある。公に善の力が付与されてしまうことが、社会にとって避けられない構造であるのなら、公の領域を再び獲得しなおす意識的な方法とは、ネット的無意識に惑わされない方法とは、どうあるのかを問い直すべきある。

公が同時に善の次元をも生産してしまうのは、それ自体が善悪の彼岸を超えている、社会的な力関係がもたらした物理的な力学構成である。別に倫理的に正しいか否かという問いの以前に、先行的な力関係が、社会の中で一定の価値基準を作り出している。意識によってそこを確認する作業とは、常に後追いの構造を免れない。正当性云々を決定する審級とは、社会的にいえば、倫理的なものではなく、権力的なものの次元なのだ。そして権力とは、自然構成的なものである。どこかに権力者がいてそれを操作しているというものではなく、自然な均衡作用として、市場を媒介にして、その力関係の構図は決まってくる。

この権力の位相を決定する、世論的な操作の構造に、ネット社会では、無数の匿名の、名前がないが故に主体を特定不能な、奇妙な衆愚性を抱え込んでしまったということである。これは世論=権力の操作が、不特定の大衆で匿名の人間ということにより、ある種民主主義の完成されたヴァージョンとしても見ることができるのだろうが、しかしそのような意思決定機構が愚かなものであるという事実には、なんら変化がないのだ。この新しい公的環境の構成力について、その悪循環、遣り切れなさから、個人の力があえて乗り越えていける手法とは、何なのか。いま模索すべきものとは、そういう方法ではないのだろうか。

公=善でもなく、私=善でもなく、環境構造を横に動かし続ける妙な変数の不安定性を考慮におきながら、意思の決定プロセスを再構築することである。ネット的な無数性=匿名性を「自然」(=公)と置き換える論法には、何か意図的な見落としが為されているように見えるのだ。むしろ「公権力」の位相が、ネット社会では確実に変わってきているのである。それはネット社会が、その多くの部分で、歴史的な擬似民主主義のエッセンスを含みながら増殖しているということでもある。あるいはそこにあるのは、まさに民主主義の限界の姿の素描なのだと考えてもよい。