情報とスピードと体制の変動

夕方、日が沈みかける時間になって、もう外の暑さも柔らいだかなと思い、自転車で大宮の方まで飛ばした。途中に幾つか大きな本屋があるので、そこで本を調べるという目的もあった。そういえば春に出ている早稲田文学で、スガさんが、吉本隆明とクロカンという論考を書いていたはずなのだが、まだ見ていなかったので、それを調べたいと思っていた。本屋にはどこももう春のワセブンは置いてるとこがなかった。こんど池袋にでも出たとき調べようか。しかしあの雑誌は図書館にあまり置いてないので調べたいと思った時にちょっと面倒である。

暗がりの中を、川沿いの道を走り、荒川の大きな橋をこえ、埼大の前を抜け、大学前の古本屋にちょっと立ち寄り、また走り出し国道17号の大きなバイパス道路を越えて、新都心の方へと走った。新都心の周囲や大宮の駅周辺までいくと、昔はちょっと埼玉ではなかったような大型書店が出ている。紀伊国屋の大きいのもあるしジュンクもある。昔の埼玉の事情を考えると、哲学書を調べるにも、豊富に置いてあるような本屋を見つけることは難しかったし、大体そういう用は東京で済ますものと決まっていたし、しかしこういった情報の流通事情について、明らかに時代は変わった。社会は郊外のような地域でも大いに豊かになった。情報の平等な拡散とは、一つはインターネットの影響もあるし、販売店のレベルでも、専門的な消費者の用途を満たしてくれるよう、サービスは多様化した。本に限らず、音楽ソースも、楽器の流通も、映画館の多様化も。時代というのはやはり変わるものだし、情報というのはスピードが速くなることによって、豊かさを増す。現実の用途に応えるものとして、実践性を増し、主体の欲望の在り方と街の構造の距離が近くなる、親密度が増す。そして情報を、店によって調べた後は、僕はまた自転車に跨って移動するわけだが、足で車輪を回し続け、汗をかく身体の感触を確かめるにつれ、情報とスピードの問題、運動とスピードの問題について思いを馳せていた。

情報を加えることによって、物が変わるとは、どういうことだろうか。情報というのは、それが真実として、主体に与えられるとしても、これは読書のときもそうだし、また物を書くという体制に主体があるときもそうなのだが、スピードが遅いと、その情報がどんな真理を含んでいようと、殆ど意味がないのだ。どういうことかというと、情報を主体が処理するとき、どんなタイプの真理を自覚する瞬間であっても、それが逐語的であって、説明が過ぎる、冗長な遅い時間で訪れるような時は、主体の持っている内的な構造体のレベル、組成の仕組みのレベルでは、情報の力によって本質的に変化を受けないのだろう。断片的に分かることはあっても、その構造においては(体型においては)主体は情報処理のスピードが遅いと変われない。情報の受理とは、それがどんなタイプの真理であっても、そのスピードが遅いと、実は意味が薄い。情報が、実質的に意味を持ちうるときというのは、ひとつひとつの断片によって意味があるのではなく、多様な情報の束の、多様性の処理として、それら情報の体系が主体に一気に訪れているとき、そこでは主体にとって本質的に多様な生産が行われる現場が生じる。いわばそういう条件のことが、生成の現場であるといえるのだ。主体にとって、情報とは、それを大量に処理しうる運動と化するときにこそ意味があるのであって、情報が断続的に、ノロノロとしたペースでやってきても、それは主体を体制としての(体型としての)変化には導かない。

読む体験が実りを産むときも、書く体験が実りを産むときも、ともに大量の情報体系が運動として一気に現象しているとき、それは生産的なのだ。そこが微分だけされて、断片的な情報の供給になったとき、同じ情報でも、それは主体の生産的立場からすれば、死んでいるも同然である。それは主体を、状態としての変動には導かない。つまり遅読とか、逐語読みというのは、読書の体験としても、情報の確認作業としても、実際には殆ど意味がないのだ。それは他者のテキストを読むというよりも、自己をそこの言葉の前で同一化しているに過ぎないような状態である。テキストにおける裂け目の発見は、確かに読む主体をそこで立ち止まらせ、動きを奪う体験に導いて他者を示すこともあるが、大抵の場合、言葉の前で遅くなるとは、むしろそこで主体がそれまでの自己を繰り返しなぞってしまう、同語反復してしまう、言葉に対する想像的な同一化の罠にはまってしまうということが多いのだと思う。

読む行為において、それが意味がないというのは、主体を、その体制としては変更に導かない。主体の組成を構造的に変えはしないということである。組成の仕組み、割合が変動に導かれるときというのは必ず、総量ではそれが同じ情報量の導入であっても、遅く断続的に訪れたのでは、構造も組成も変動せず、それは、スピードと一定の全体化の力によって連続的な運動として働きかけられたときに、組成の内的な変動が生じはじめるものだ。同じことは、身体と運動の関係にも言える。どのようなときに、体型とは効果的に変われるのだろうか。同じ負荷、同じ反復体操を、身体に加えているとしても、それが遅くダラダラと加えられているとき、身体にとって、それは特に身体の状態を変えるものにはならない。つまりフィットネスとして考えたとき、そういう刺激の受容は意味がない、身体に効かない。身体にとって効果のある運動、シェイプを絞るにしても、身体の形状を変えてしまえる運動というのは、同じ情報量、同じ刺激量について、それをスピードにおいて、身体に与え続けなければ、身体は効率的に昇華されないし、体型も別に変わらない。

同じ情報量、同じ刺激量であっても、それを一定のスピードまで持っていかなければ、身体にとってその運動は、変えるという意味では意味を持たないのだ。脳の運動、脳の処理活動にとっても、情報とは、それがスピードに乗ったとき、実質的な変化の活動を、内在的に起こすことができる。これが身体の活動なら、刺激量としての情報量が、やはりスピードに乗ったときだけ、身体は効率的な変動作業に目覚めることができる。情報、刺激、運動、フィットネス、負荷、これらは総じて情報的な伝達の要素として、脳の活動にとっても、身体の活動にとっても抽象的な要素として捉えなおすことができるが、情報の力がそこにある体制を変えるとき、必ず不可欠な要素とは、情報量の多様性を綜合する力としてのスピードの存在であるのだ。そういう内容を、暗がりの中で、自転車を単調にこぎ続けながら、改めて自明の事実として自覚したのだ。額からも背中からも汗を流しながら。