ボギーの時代−孤独な行動者像の起源

そうえいえば友人にひとり、ラオール・ウォルシュがすきだという人がいて、僕は見たことがなかったのだが、彼の言うことに興味をもって見てみた。図書館で『ハイ・シェラ』というラオール・ウォルシュのDVDを見つけたので見たのだが、ハンフリー・ボガード、いわゆるボギーと呼ばれた役者が主役である、アメリカのアウトローものの一種、1941年の作品なので、その元祖といった種類にあたるものだろう。ボギーといえば、その昔、沢田研二の歌に出てきた。「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった・・・」というボギーである。カサブランカ・ダンディ、というジュリー=沢田研二の歌だった。「ボギー、あんたの時代はよかった、男が、ピカピカの、キザでいられた・・・」という台詞である。ボギーと言われても特に思い当たるイメージもなく、ある種の世代でなければわからないイメージなのかもしれないが、ハイシェラを見る限り、ボギーとはダンディズムの一種であり、美学的な自己のスタイルだったということが窺われる。

映画の設定は昔のロサンゼルスだが、強盗稼業で逃げ延びている、一匹狼的な男性を演じるのがハンフリー・ボガードで、もう彼は足を洗いたいと思っているのだが、最後に、若い足の悪い女性に興味をもち、彼女の治療代を出す為に、最後の強盗をやろうと考える。女性に手術をさせてやるが、しかしボギーは振られてしまう。前の女とよりを戻し、一緒に彼女の故郷のサンフランシスコまで逃げようとするが、途中で顔が割れて、ハイシェラ−シェラ山地の高みにて追い詰められて、警察と銃撃戦になり、孤独で一匹狼的な男性の最後は、悲しい結末を迎えるという話である。アウトローの美学で、それが映画となって大規模に生産されはじめた頃の走りだともいえるが、−制作はハリウッドで1941年である−アウトローといっても、ボギーの場合は、まだ相当に上品で、品のある孤独に行動する男の美学といったものになっている。アウトロー系、男の美学系、ダンディズム系の映画作品とは、この辺から発して、やがて様々な、多様なるスタイルに分岐していくことになるのだろうが、例えば今の我々で身近なところでいえば、松田優作のスタイルとか、ゴルゴ13のスタイルとか(これは映画から派生した漫画的設定と云う事になろうが)、一匹狼系の、映画的設定というのは、系譜を見れるのではないかと思う。ボギーのイメージの特徴は、からだは小さいのだが、何か自己に対する美意識的な拘りが強い、そして物静かで控えめな中から、自己を主張するといった性格にあるだろう。

映画としては、アウトロー的な設定なので、必然的に、強盗とか違法行為に関わる人々の生き様を描き出すことになり、この時期から展開していくことになるのだろう、ギャング映画や日本ならヤクザ映画の設定から、制作の環境が、出来上がっていくことになる。映画とアウトロー、映画と違法的世界の関係性が、そこには成立し、映画はその最初から、月世界旅行のように空想的世界、ファンタジーについて積極的に描くことを、その傾向にしていたが、想像的設定を、観客の日常生活の中に持ち込むものとして、法の外に生きる人々の生態、裏社会的な人生の生き様を、その大きなテーマとして抱きはじめることになった。映画が、違法的世界との想像的関係を取り持つものとして、社会的に、興行的に機能しはじめるということは、映画の興行という実態において、映画館という場所とは、どのような人々を普段から社会の中で引き受けているのかという、観客層の実体から導き出されてきた現実になっているのだろう。要するに、映画館が普段、昼間から吸収している客層というのは、何らかの形で、平常的な市民生活から外れている人々、カタギではない人々の層というのを、必然的に受け入れるものである。違法的世界との想像的関係を取り持つことが、そういった観客層の事実性を見据えたとき、必然的に導き出されたのだろう。ボギーのように、一匹狼で、組織に属さず、何か後ろめたい仕事に手を染めているが、自己への意識としては、何かとても美学的であり、道徳的な判断においても、世間常識とは異なった形で、しかし何か強靭なプライドを持っている、というスタイルが、映画館的な現実として一般的に要請されたのだ。日本の映画館的な時代においても、全く事情は同じものである。そこでは高倉健松田優作のイメージが、最もよく要望されたのだ。