『TOKYO POP』−レッドウォーリアーズの赤い糸

1.
80年代の頃東京にあった左翼というのは、思えば今ある再建されたといえるような形と、それ以前の左翼を接続する在り方において、礎の萌芽みたいなものが、そういう場所に訪れたとき見え隠れしていたようなものである。今から思えばあの時のあれがその後こんな形になったんだよな、こんな人脈に発展したんだよなという原初的に様々な痕跡を、幾つかの特徴的な場所の記憶から振り返ることができる。80年代を振り返るとまさにあの時代が過渡期にあたっていたことが今になって確認されるのだ。

文化的には空白期間のように感じられていたのかもしれないあの時代。一言で「ロスジェネ」という言い方があるが、最近のロスジェネというよりもあの時代のほうがまさに今よりも何もなかったもので、宙ぶらりんとか寄る辺ない世代というのなら、ロスジェネという規定さえ流行らなかったものの、80年代のほうがはるかに何もなく奪われていた若者たちの世代という気がするのだが。あえて今のロスジェネよりあの時代の人々で目立った現象といえば、80年代は後半に差し掛かるにつれてバブル経済の波が急速に高まり、それまでの時代がまだまだ貧弱で、清貧の思想のようなものを引き摺っていたこともあるが、就職の条件だととてつもなく若者が優遇された時代であるかのように、今になって言われているではないか。しかしそれで生活内容が豊かといえるのかというとそんなことはないから。多くは誤解されてる。実態は全然そんなバブル景気なんていうものは大したものではない。豊かな人々への富と特権性の集中とは更に極端に現れたかもしれないが、70年代まで日本が引き摺ってきた時代の幻が余りに貧困の精神の美学化に囚われていたが故に、特に精神性がそこから切断できたことが経済的豊饒のように見せかけられただけであって、あれがそんなに解放的な時代なんていう印象は持てなかったし、実際今と比べてあっちが豊かであったというようなことはなかった。解放的というよりすべてが空虚に見えた時代だったし、空虚という意味ならすべてが等価になっただけだ。

日本のそれまでの時代が貧しさを引き摺りすぎていた。切断ということなら、それは80年代後半、まさにバブル絶頂といわれる時代に起こったのだろうし、車の所有や大学生活とかで消費財の豊かさは目立ち、性的なイメージの文化的側面も日本ではあそこで解放的に向かったのかもしれないが、だから特に幸せであるとか余裕であるとかいうような気持ちはなかったと思う。急速に日本人の重荷の感覚がなくなった、しかし開かれた視界にはただただ空虚さの穴ぼこが目立つばかりで、こんなので幸せと言ってしまっていいのかという躊躇いがあった。別に、どこいったって何もないじゃんという感じのほうがリアルだった。ここより他の場所さえもうない時代なんだと知れた。



2.
シラケ、物質的裕福さ、そして平和。特に大学のキャンパスからは左翼的暴力というのが殆ど沈静化していった時代だ。70年代ならばキャンパスを昼間歩いていたら普通にゲバでやられた学生の姿がぶっ倒れていたなんていう光景は、もう見なくなった。僕の高校時代一緒にラグビー部やっていた友人は、85年に中核派のテロに遭っていたが、そういうのは極々少数の珍しい現象であり、一般学生から見たら異常な現象ということにもうなっていたのだ。しかしなんで僕が高校で一緒にラグビーやっていた友人が、そんな明るい時代になってもまだセクト内ゲバにやられているのか、僕自身のその時代に置かれている環境というのは不思議そのものというか、僕自身で不可解な人間関係の流れというのをずっと引き摺ってきていた。80年代後半になってもまだそんな雰囲気の中にいるなんて何かがおかしいのではないか。いやきっと何かがおかしかったのだ。

だからといって他に、僕にとって向かいたいと思えるような違う場所というのはイメージが持てなかった。どうせ日本の中なら何処いったって高が知れてる。別に海外に出れば特に何かあるという気もしなかった。まずアメリカには何かある気がしなかった。しかしもし金銭的な余裕が許されるなら、あえて行きたいような外国とはどこだろうか。フランス。ドイツ。フランスに行って本格的な左翼の流れを体験したらどんなもんだろうかとか。当時はまだドイツは東西に分かれていたし。そういえばベルリン自由大学というのがあってその大学が面白そうだ。もし留学するならベルリン自由大学だろうか。東西に壁で分断されているベルリンという都市のイメージとは、80年代にあって何か憧れを誘うものがあった。

中国やベトナムの大学なら格安で留学できるのではないかとか。特に社会主義圏の現実をこの眼で見てみるのも悪くはないとか。実際の社会主義体制で人々はどんなになっているだろうか、そこには共有される人間性の同じ姿がどんなところに見出されるのだろうかとか。友達や友情や家族や幸せの中にその同一性はあるのだろうか。あるいは社会主義圏でもイジメとか悪の中に明らかな人間的同一性とは発見できるのだろうかとか。考え付く、ここではない場所のイメージとはそんなものだった。

中国の北京では、80年代の終りに、天安門の弾圧事件が起こったものだった。並行するドイツでは、89年に壁が崩れ統一がされた。僕らは、天安門の事件をテレビ映像の報道で見ただけだが、連日盛り上がり新しい革命へと向けて天安門の広場に集まってくる中国の若者たちの姿があり、そこは中国の解放区として現れており、演説、集会、ライブが連日開かれ、天安門広場で中国人の若者が演奏する音楽がパンクロックであり、その音が極端にかっこよかったとテレビの報道を見ながら思ったのを覚えている。しかしあの昼夜通して開いていた若者たちの宴は弾圧され、戦車が投入され北京の街を走り、その報道映像だけを、ずっと僕らは80年代の終焉に見ていたのだった。



3.
あれは87年だったか。真夏の暑い日のある日、僕は早稲田大のキャンパスに遊びに来ていた。今はもう取り壊された3号館の地下室で、たしか資本論の研究会をやるために、僕は早稲田へ遊びに来ていたのだ。

早大の古い石造りの建造物である校舎の地下室は、部室が出来ていて溜り場になっており、そこは随分と古くから学生によってそういう使われ方がしてきたみたいで壁も床もみんな年季が入っており、埃で黒ずんだ床であるけれども決して汚いという感じはせず、冬はスチームの暖房装置が取り付けられていてしのぐことができるが、夏場となると冷房装置はついていなかったので、もう地下室の全体から蒸した空気が充満しており、暑さと地下室の奇妙な匂いのために頭の焦点がぼけておかしくなってしまいそうな、そんな空気が、石の階段を伝って地下室の入口へと、真夏の昼間に入っていくときには感じられた。

資本論の読書会には早く到着したので、人も疎らな早大校舎の地下室を歩いて回った。ちょっとした探索のような感じで。古い地下室の配置は、一階の便所の横の石の階段を降りたところに、朝鮮研究会の部室があり、その向側には白くペンキで塗った扉で、元は倉庫だった場所を改造したという社会哲学研究会の部室があり、奥にはまた幾つか部室が並んでおり、ヤングイーゼルという美術サークルの部室があり、同じ部室の奥の部屋を本棚で仕切って、窓側に面した狭い区画を哲学研究会が使っており、僕はここの哲学研究会には、浪人していた頃から高校の友人の伝で出入しており、浪人していた頃、友人のほうはもう早大生だったが、サルトルの読書会をしていた。

僕は、自分の父親が早稲田だったので子供の頃から早稲田のイメージというのが嫌で嫌で、特に早稲田に入りたいと思ったことがなく、浪人してから別の大学に入ったものだったが、何故ある種早稲田という場所には、日本の現代史的な出来事の青春像における語りの中で、独特の求心力があるのかというのは、こういう部室の有様を眺めていると理解できる気がした。古びて黒ずみ埃に塗れているように見えても、よく見ると決して汚くはない。部室のオブジェの数々。そして近寄ってみると壁やオブジェや床からは独特の匂いを発している。なんというかその匂いが決して不潔だとか汚いということがなく、微妙な渋い匂いなのだ。



4.
それで資本論の研究会に来たもののまだ時間があるので奥の部屋を散策した。真夏の暑い昼下がりである。外に立つ木立から緑の影と涼しい風が時折地下部室にも差し込み、蝉の忙しげに鳴く声が寂しいキャンパスの中で木霊している。しかし地下室は静かだ。そして暗く日陰になっており、外よりはまだこの日陰の空間のほうが涼しい。しかし地下室の中でも場所によっては、換気がよくなされず埃染みた古い空気が熱をもってむっと漂いだしてくるような、ちょっとした隅の場所に出会ったりする。

地下部室の廊下は奥のほうにいくにつれて倉庫のようになっており、そこには古い荷物や使われない椅子や机が奥に積み重ねられたりしていた。人気のないその日の地下部室だったが、一番奥の部屋にどうやら人がいる気配を感じたのだ。そこは中南米研究会という部室だった。部室のドアは開けっ放しになっていた。僕が顔を覗きいれると、部屋の奥に一人だけ男が腰掛けていた。広い部屋だったが、部屋の中は、積み重ねられた本だらけでそこは本の倉庫のようになっており、ずっと本や荷物で埋まっているスペースの一番奥に、机があり、そこでは寝ることもできるような椅子とソファがあり、窓が外に向かって開いていて暗い中に明かりが差しており、一人の男がそこでずっと本を読んでいたのか、あるいは横のラジカセで音楽を聴いていたのだ。こんなに人気のない休日の閑散とした大学キャンパスの中で。

こんにちわ。一応警戒しながら僕は挨拶を入れてみる。部屋の奥にある人影に向けて。しかし奥にいた男は、愛想のよさそうな男だった。むさくるしい感じの男で、髪の毛も髭もぼうぼうで、真夏の季節にありがちな最もラフといえるような服装で、サンダル履きで一人そこに座っていた。むさくるしく無骨な顔をした男だが、気前はよく話しは好きそうで明るい男だったので、しばらくその場所に引き込まれて話をしてしまった。



5.
中南米研究会の屋号に相応しく、中南米の左翼とかゲバラ主義とかそういう話が好きそうで、部屋に山のように積まれている本に文献の数々も、よく見ればみんな左翼系の本や哲学書ばかりだし、これは居心地のよさそうな場所を独占している男だなあと思った。

僕は自分の身分、別に早稲田の学生じゃないんだけど、先の社会哲学研究会の白い扉の部屋で資本論の研究会をやってる。それで今日は来たんだ。そういうことを話した。それで、君は左翼なのかい?と。相手の彼は、左翼だったみたいだ。一文の学生で出身は熊谷高校ということもわかった。熊谷高校か。僕も実家は埼玉なんだよ。埼玉の坂戸だよと話した。坂戸?坂戸なんか、まだ都会だよー。と彼は何か悔しそうな顔をして、言った。一浪して駿台通って一文に入ったという早稲田の左翼学生だった。

僕は、何故だか。偶然遭遇したこの男、熊谷出身のモサ男、熊のような風体だが、男おいどん系というか、早稲田特有のバンカラとまでは言わない、そこまで硬派ではないが、中南米研究会のイメージには何か合ってる男、汚くて格好は悪いんだけどしかし男臭はむんむんしてるし、妙に愛嬌が強い男に、いい波長を感じ取った。なんというか僕が一緒にいて安心できるタイプの男だった。

その後、事あるごとに、彼といろんな所で遭遇した。左翼集会で遭遇したり、大学キャンポスで行われる講演会や研究会で遭遇したり、高田馬場から早稲田まで古本見て歩いてる最中ばったり会ったり、偶然どこかで顔を合わすたびに、何か彼の気前よい笑顔を見て、視界が一挙にその都度明るくなるような体験をした。

すれ違うとき、醸し出す空気がある種似ているといわれ、そのうちこの界隈で、兄弟と呼ばれるようになった。げっ!それはちょっとやばいだろうという戸惑いもあった。彼と僕で共通の趣向、話の合った点とは、彼はどうやらブルースマニアで、自分でも常にギターを小脇に抱え、キャンパスや至る所でギターをポロポロ鳴らす人だったということがある。左翼の話以外にも、ブルースやロックの話をした。

いつもサンダル履きで歩いており、暑苦しい存在感だが最もラフな格好をして、時々唇を横に歪めながら、にやにや笑みを浮かべ、早稲田から高田馬場に通じるストリートを歩いている。歩いていてすれ違うたびに、あいつだとはっきり分かる男。彼はそれなりに学校でも左翼の界隈でも有名な男だったみたいだ。他の人に聞いたら、彼の通称は、タンコボという名前で呼ばれている男だということだった。早稲田の学生で、左翼の界隈にいる。ブルースギターを弾くのがうまいが、早稲田の音楽系でもちょっと彼の場合は一線を画している。普通の大学生の音楽系ではないとか。まさに「たんこぼ」という名前は彼のイメージに相応しかった。名前の由来は、タンコボとは何か中国の古典思想、道教かそこらのテキストから出典だという説も聞いたが、どうもその意味も定かでなかった。しかし、早稲田に遊びにいくと、いつもタンコボと、どっかで会えるというのは、一種の楽しみにもなった。



6.
時々研究会などで立ち寄った折、僕はタンコボと話をした。彼はロックにも詳しかったが、彼の兄貴がロックミュージシャンをやってるというのだ。レッド・ウォーリアーズでベースを弾いている。レッドウォーリアーズ?知ってるよ。僕はあのバンドに注目していたんだよ!87年当時の僕は驚いてタンコボに言った。レッドウォーリアーズというのは、何かバンド名が妙に気になるということもあるが、時々ロックの番組で、ラジオやテレビの片隅で紹介され、音楽の内容は、バリバリにストーンズベースの原理的ロックだし、キース・リチャードを中心にロックを聞くある種の人々にとっては、日本でもこんなゴリゴリの正統派を演じる若いのが出てきたということは、80年代の土壌において、とても正当だし、日本においても頼もしい事態だと感じていた。その僕も知っていたレッドウォリアーズのベースは、彼の兄だという。へー。すごいじゃん。それでタンコボの兄貴というのが、どういう人なのかを聞いた。経歴的には上尾商業を中退してるという。それでミュージシャンになった。

レッド・ウォーリアーズといえば、知る人ぞ知る日本の正統派ロックンロールバンドだった。80年代に出てきて一定有名にもなったバンドだ。ダイアモンド・ユカイこと田所豊がボーカルで、ギターとサウンドメイキングの要は、シャケこと木暮武彦である。ダイアモンド・ユカイはその後俳優としても何本か興味深い映画に出演したが、木暮武彦というのは、最初はレベッカの結成メンバーにもいた日本では実力の買われていたギタリストだった。レッド・ウォーリアーズが結成されたのは85年だった。それで急速に人気が出て、バンドはテレビのメジャーな歌番組にも出るようになり、日本の全体が、バンドブームでロックブームという時代を迎えたが、89年の西武球場のライブを区切りにして、一回レッドウォーリアーズは解散している。



7.
高校を中退して埼玉からミュージシャンを目指したタンコボの兄貴が、最初にやったことは、尾崎豊のカバン持ちだった。それはまだ有名になる前の、駆け出しだった頃の尾崎豊だ。調べてみると、タンコボの兄貴のほうが年齢は尾崎の一個上である。しかし当時出会った尾崎豊の才能に気が付いたのだろう。タンコボは、まだ有名になる前の尾崎豊のデモテープを兄貴から手に入れて、友人たちに、この新しいロック歌手がいいんだよと言って聞かせていたのだ。兄貴のほうは結局、レッドウォーリアーズ結成のほうに参加して、尾崎豊が有名になるのと並行するようにして、ロックの世界で成功した。

レッド・ウォーリアーズは89年で一回解散している。その後何度も再結成をしているのだが、レッドウォーリアーズの活動が分散していったとき、田所豊は個人活動のほうが多彩になっていった。田所豊は俳優もやった。88年に、アメリカ映画の『TOKYO POP』に田所は出演して好演する。トーキョー・ポップは80年代に日本のサブカルチャーにあった独特の風土、雰囲気を、ロックという角度から切り取り、海外に向けても紹介した作品として、とてもよくできている。さっぱりとした味わいのいい映画だった。ツーリストのアメリカ人女性と、ダイアモンド・ユカイが演じる日本のインディーズで頑張ってるロッカーが、ロックを通じて出会いロマンスする、仄々した、微妙で静かな元気を与えるような映画だった。

この映画は80年代シーンの流れにあって、実は重要な映画だったと思うのだが、国内での評価は芳しくなく、まだDVDにはなっていない模様である。しかしこれは確実に、80年代後半の東京にあった微妙な空気を鋭く抉っている作品で、ソフィア・コッポラ(いわずと知れたフランシス・フォード・コッポラ監督の娘だが)の監督作品『ロスト・イン・トランスレーション』は、この『TOKYO POP』の影響を強く受けて作られており、オマージュが捧げられ同じモチーフの映像が反復されていて、田所豊も脇役で出演している。80年代後半の東京、街の空気、木造のアパート、そしてロックを目指す若者たちの群像と、時代を覆っていたぼんやりとした平和と曖昧な希望の空気とは、見事にトーキョーポップで収められているといえよう。



8.
さてそれで、レッドウォーリアーズが解散し、その後どうなったのかと、しばらく時間が経った後、やはり僕がどこかの街角でばったり遭遇したタンコボに聞いたことがあった。兄貴は上尾のコンビニでバイトしてるよ、と言っていた。タンコボの個性は学校でも際立っていた。いつもニヤニヤしながらサンダル履きで、唇を横に曲げて歩いているタンコボは、とにかく徹底してマイペースでしか生きていない男なので、この先どうなるのかとは、ちょっと不思議で、楽観的だが不安定な要素もあり、なんとはなしに気になるところでもあった。

ある日、ずっと時間は経ち、僕は界隈から遠ざかり幾つか仕事をやっていたのだ。そんなこんながあってからまた再び、大学や左翼の集会などに立ち寄ってみたところ、あのタンコボは今どうしてるのか?と界隈の人に訊いた。昔のタンコボ君とは、今では名称が変わっていて、今は彼はテキサスというのだと教えてくれた。たんこぼはテキサスに名前が変わったらしい。それで昔はいっつも一人で、しかし一人だがいつも楽しそうにしてニヤニヤしながら行動していた彼だが、何年も経ってから彼は相応に早稲田では顔になっており、自分のサークルを持ち、自分の弟子のようなものを連れて、大学では完全に過疎化している学生運動の状況を、一人で担っているというのである。

つまりずっと同じことを何年も大学で続けてきたかつてのタンコボ君は、後にはそれなりに大学での顔役となり、早大学生運動では最も有名な、いつもいる人ということでヌシのような存在になり、単に学生運動を、大学8年生ぐらいになっても続けているだけでなく、弟子も何人も引き連れている。タンコボが、時間が経ち、早稲田の学生を何年も留年しながら留まり、ずっと運動一筋であり、横にはブルースギターを抱えながら、大学の有名な裏の顔のようになりましたという事実には、なるほど、そうなったかと頷くものがあった。そういう生き方というのもあるんだなということである。僕が納得したのは。彼が早稲田で、拠点として結成したサークルは、ブルース軍団というサークルであり、彼の名称は既に、テキサスということで変更されており、テキサスは早稲田学内で単に弟子を引き連れているだけでなく、彼の弟子でサークルメンバーたちは、通称、奴隷と呼ばれ、サークルと運動の主であるテキサスに、貢ぎながら活動するという生態系が、大学の片隅には出来上がっていた。



9.
話を聞けばもう笑いが止らないほどだった。しかしブルース軍団という左翼運動も兼ねたある種カルトサークルのようなものの主となって、8年生になっても、そして彼は卒業はできたらしいから、大学卒業した後も何年もずっと大学構内に留まり続け、運動を続け、弟子まで増やしている彼の姿について、コッポラの『地獄の黙示録』に出てくるマーロン・ブランドの演じる男の姿、ベトナム戦争で失踪した米軍兵士がカルト的な村落の王のようになってベトナムのジャングルの奥地に君臨する、あのマーロン・ブランドの姿がぴったりと重なったものだったのだ。

ある種、彼は大学という場所においてカルトの帝王のようになった。最初に彼と出会ったときから、この面白い男の将来は心配もしていたが、そんな心配など何処吹く風であり、立派にカルトの帝王のようになりながら、最後は早稲田で消滅しようとしている学生運動を一人で担い、8年かけてギリギリ卒業した後も大学構内にいるし、大学当局から出入禁止令を出されても、まだ学生運動をやっていた。

このおかしな男の生態に注目する人もいた。文芸評論家のスガ秀実が、このテキサスと名乗るようになった早大学生運動のカルト的人物を気に入り、一緒に活動し、早稲田の学生運動を手伝い、そして自分の映画にも出演させた。スガ秀実ドキュメンタリー映画『レフト・アローン』において出演する彼は、やはり相当インパクトあるのだが、また自称するところの名前が変わっていて、「花咲政之輔」という名前で彼はクレジットされている。

たんこぼは、数年かけてテキサスになり、自分のブルース系音楽サークルを成功させた後、花咲政之輔という名前になったのだ。しかし、彼の本当の名前は、小川というのだ。彼は早稲田で卒業した後もずうっと大学に居残り続け、一人で仲間を集め続け、そして消滅する学生運動の天然記念物的な絶滅種のように活動を続けた。ブルース軍団時代の彼の弟子にはその後社会哲学で暴力論と国家論を書いた萱野稔人もいる。

最初に彼を見つけたときから、この面白い男の可笑しすぎる故の将来は危ぶまれたが、そんな心配は何処吹く風で、彼は自分のバンドを立ち上げ、ブルース軍団というカルトサークルは立派にプロ志向の楽団となって成長し、ライブもちゃんと繰り返し、そのバンドの名は、太陽肛門スパパーンというものになった。太陽肛門スパパーンとは、現代音楽の中に位置づけるべきようなバンドであり、その音楽は、政治的な主張が強く、大所帯のバンドで、演劇的な要素を多く取り入れる。メンバーたちが、白いブリーフをつけて恥ずかしい姿でステージ上に現れ、サックスを吹き、トロンボーンを吹き、大所帯の楽団が演奏される。

フランク・ザッパと音楽のコンセプトが似ているともいわれるが、花咲政之輔こと小川くんは、長い早大時代に培った豊かな音楽系人脈を駆使し、その筋では有名なミュージシャンも数多くゲストとして参加してもらっている。太陽肛門スパパーンはメジャーレーベルとの契約でCDも出しており、たしか徳間ジャパンから過去に出している。映画レフトアローンのサントラ盤も太陽肛門スパパーンが担当している。

それなりに大したものになったと驚嘆する念もあるが、しかし彼らにとってベースにあるものとはやはり一貫している。地べたに這いつくばるような政治活動であり、それは最も根本的な自己主張活動なのだ。ずっと変わらなかった彼は、表面的な名前こそ何度も変えてきたが、この先も間違いなく全く変わらないで生きるだろう。この絶対的なマイペース人生とはなんとも頼もしい。彼の愛読書は毛沢東語録だった。語り口も考え方も、地下室の中南米研究会で出会ったときから全く変わらなかったのだ。こういう人物がいまだに日本にいるということに驚嘆を示したい。そしてこういう人物が今でも支えられうる日本であるということに、希望を見出したいものだ。



10.
それで、かのレッドウォーリアーズはその後どうなったのか。調べてみたところ、小川の兄貴は、今は北海道の釧路でペンションの経営者になっていた。自然主義的なスタイルを謳う宿を開き、自然食を研究して客に提供し、釧路湿原についてカヌーで案内したりもする仕事をやっているようだ。ダイアモンド・ユカイは、去年に「成り下がり」という自叙伝を出版し、もう実家の埼玉で農業をやりますとかいう宣言をしたりもしたが、音楽活動も時々続けているようである。木暮武彦は、富士山麓に自分のスタジオを持ち、音楽活動とその他スピリチュアル系、自然食系のカフェを両立させて経営している模様である。ある意味、80年代的な成果であり到達点というのが、こういう局面で結果として出てきている。

レッドウォーリアーズとは、メンバーがみな埼玉に縁あることがバンドの特徴でもあった。埼玉の地から隣の東京に向かい仰ぎ見るとき。そこには何か飛び越えてしまいたい曖昧な壁がバリアとして塞がっていた。いやむしろこの壁の存在が前提とされてたからこそ向こうに行きたいという欲望は生まれたのだろうか。東京と埼玉の距離は当時今よりも大きかったのだ。80年代、東京、サブカルチャーの曖昧な欲望の空気。そして希求されたのは漠然とした希望と自由の感覚である。彼らは、日本人におけるストーンズのコピーに始まって一貫してその曖昧な自由の追求を貫いてきたものであり、もはや懐かしいともいえるあの曖昧であるが故に暖かい東京的自由の感覚を、その温もりに絶妙な按配の気持ちよさを知っているが故に、いつまでも他者に伝え続けていたいのだろう。あのとき飛び越えたいと感じていた希望と壁の存在を。