『ダイ・ハード4.0』

今月の頭、1日は例の如く映画の日で、何を見ようか迷ったのだが、ちょうどダイハードの新作が公開したばかりだったので、それを見ていた。ダイハードシリーズというのは、僕にとって嫌いな映画ではない。何か惹き付けられる奇妙な重力を映画の設定自体が放っているのだ。それはブルース・ウィリスというキャラクターの魅力が最も引き立つ設定でもある。

「Always wrong time wrong place・・・」(いっつも、場違いな時間に、場違いな場所にいる)というのが、ブルース・ウィリス演じるニューヨーク市マクラーレン警部の反復する台詞である。雪崩的に、なし崩し的に、ブルース・ウィリスの足元の状況は常に崩れていき、過酷な状況へと加速度的に追い込まれていく。そこで絶対あり得ないような荒唐無稽な脱出劇を常に主人公は強いられているのだが、それでは、この設定を潜り抜けることによって得られる爽快感の正体とは何なのだろうか。絶対的なマゾヒズム世界を運命として呪いながら、しかし決定的に、それらを片っ端から片付けていく、何かの生真面目さが、ブルース・ウィリスに反映されているのだ。この劇のいつもの如くの荒唐無稽さとは、なし崩しの死に対抗しうる唯一の手法が、このスキゾフレニーな横滑りの運動だとでも言わんばかりである。

今回のダイハードは、テーマがサイバーテロであるということから、興味をひいていたのだ。サイバーテロというものだが、世界的にインターネットが始まって以来、まだ本格的で決定的なサイバーテロというのは、我々は経験していないわけだ。人類史上まだ経験していないのだといってもよい。もし大規模なサイバーテロというものが将来あり得るなら、それがどんなものになるのだろうかというのは、設定としても興味をそそった。それで見てみたところ、映画で描かれた事件というのは別に大したものではなかったのだが、仮想世界と端末によって関わる顔の見えない人々が、奇妙なサイバーワールドの平面を構成していて、ブルース・ウィリスのような見るからにシンプルでアナログな男が、孤高に対決を挑むという、予想通りの分かりやすい話である。

出てきたサイバーテロの内実とは、金融システムを集中的に司っている端末がどっかにあって、そこをハッキングして大金をせしめようとするハッカー集団の話であって、そのハッカーは、元は国防省のメンバーだったが、意見が受け入れられずに恨みをもって辞めている。彼は国防省のコンピューター内部を把握している男なのだが、俺こそが真にアメリカ国家の魂を救えるのだと思い込んでいて、国家自体に宣戦布告を挑んでくるということになっている。しかし大言壮語な理念はどうあれ、要は目的が金だというところが、このハッカーの悲しいところであって、典型的な映画的悪役にはまっている。

このサイバーテロルに対抗するために、マクラーレン警部が味方にするのは、アメリカの各所に散在するオタクの草の根ハッカーである。いわばネット社会には既にハッカーアナーキズムというのが出来上がっていて、こういった人々は本当に最近出現した、今までなかったタイプの人々の生態である。ハッカーという生態とは、ハッカーのためのハッカーという感じで、特に明瞭な目的もなく、それ自体で増殖し展開しているような有様であり、こういう傾向がネットの中に出来上がっていることも、いわば必然的な事態なのだろうが、その行く末、ハッカー主義の未来に待っているものとは何なのかということについては、結構重要な、分析してみるテーマはあると思う。

ハッカーの自己増殖、それ自体の為の増殖とは、その行末にあるものとは何なのかと。何処かでこの自己増殖に歯止めをかけるべきなのかもしれないが、仮想世界的構造にとって、こういった進展には特に歯止めをかけられるメカニズムもない。ただ自己増殖していく様を、自然現象として放置してみているしかないというものである。結果的に、そこで大規模なテロが、大きな損失を伴い社会的に決定的なアピールをしにくるテロリズムが、将来はありうるのかもしれないが、どうも今回の映画の設定では、そこまでリアルな想像が回らなかったみたいだ。残念だが。

サイバーテロというのは、具体的にどんな事がありうるのか?まずヘリコプターでマンハッタンの上空を飛びながら、ストリートの上で、各交差点の信号機に異変を起こす信号を送る。こうすると、赤と青の信号を逆転させてやるだけで、交差点では一挙に交通事故が起こり、それが通りごとに順番に起こり、大きな交通混乱を起こさせるとか。テレビの放送を電波ジャックし、そこにはホワイトハウスの映像がうつっている。アメリカ国歌を流す中でテロルの声明文を読み上げ、ホワイトハウスが爆破される姿が映る。一瞬、人々は凍りつき、警察署の内部もパニックになるが、これはフェイクだと、気付くものはちゃんとすぐわかる。

正真正銘のアナログ男、マクラーレン警部は、味方にしたハッカーの青年を車に乗せて、ラジオからは、CCR(クリーデンンス・クリアウォーター・リヴァイバル)のロックが流れてくる。ハッカーのオタク青年は、やめてくれ気分が悪くなると言うが、マクラーレンは上機嫌である。マクラーレンハッカー青年の間で、ロックの歴史談義が交わされる。パールジャムって何年前なの?キュアは?といった感じである。ダイハード4の中では、CCRの曲が何度か反復されることになる。ダイハードにとって、果たしてアナログの魂とは勝利したのだろうか?マクラーレンは、何故自分がこんな危険な仕事を引き受けるのかということについて、映画の佳境で語るのだが、それは自分以外に、これがこなせる奴がいないからだ、この仕事を他にできる奴がいれば、俺はとっくにやめてるよ、と語っている。デジタル世界の、すべての物体と出来事が情報として、デジタル列として交換可能と化する法則に対して、マクラーレンの抵抗する根拠とは、自分の存在の同一性だけが、社会を守る仕事の中で交換不可能なのだと主張していることになる。なるほど。自己にとっての交換不可能性をどこに求めるかが、これからの社会にとって生き甲斐の根拠になるのだろうか。

ダイハード的な結論としては、それはよくわかるのだが、しかしサイバー社会では、交換不可能性の位相もまた、以前とは違う場所に移動してくることは必至なのではなかろうか。それが交換不可能な点だから生き甲斐になる、根拠になるといった論理も、どこまで通用しうるのか、実際には危ういものがあると見えるのだが。しかし、ということは、自分を確認するための移動とは、マクラーレン警部の掟に倣って、Always、wrong place、wrong time、といったように、意図的にそこが誤ったポイントに設定されるように、自己の支点となるポイントをずらしてもっていけば、常に自己とは、一般法則に対して、交換不可能性を維持できるということになるのだろうか?意図的に誤った場所を見つける、という技は、最終的に人為的行為として残されている、コンピューターの学習できない最後のポイントになりうるのだろうか。

人は、やっぱりたぶん、何かダイハードな体験を経ないと、自分を確認できないような構造があるという、マゾヒスティックな宿命を背負っているのかもしれない。このマゾヒズムだけは、コンピューターに真似できないのだろうか。しかしそれもわからない。人間的な錯誤行為とマゾヒズムの法則性まで、コンピューターが計算できてしまうような、そんな日がもし来たら・・・。想像するだけで恐ろしい世界である。ダイハード4が到達しようとしている目的とは、人間的という意味で最後に残されているポイントとは何なのかというのを、映画的展開の法則に則って、導出することにあるものだ。