池袋文芸座にてカール・ドライヤー二本立て

火曜は池袋文芸座でカール・ドライヤー二本立てを見ていた。『怒りの日』と『奇跡』である。ビデオやDVDではなかなか見れない作品だが−置いてある所を知らない−、夕方から夜の客席はほぼ埋まる位、入っていた。若い人から上のほうまで客層は色々。前にドライヤーで見たことあるのは、『裁かるるジャンヌ』と『ヴァンパイア』だった。火曜の二本立ての映画は、既に情報としてはよく知られているものだったが、実際に見てみて、ドライヤーを支持している人々の強さというのが、よく実感できた。淡々とした画面の人物劇にも見えるが、映画に込められている情報量は広く深く、そこに驚くべき密度の濃い強度が塗り込められているのがわかった。しかもとても狂気的な情念の片鱗が、何重にも映画の中には、仕掛けのようにして折り込められている。これは確かに凄いのだ。またこんな映画を作る監督自身が、間違いなく変態的−異端的な人間である。ドライヤーは、キリスト教社会の裏側をよく知り尽くしていて、描写している。しかし『奇跡』のように、唐突にして、意味の脈絡を飛び越えて人間が蘇生してしまうような結論の映画を見ても、この人が信仰の側に何処までも執着がある人なのだろうということはわかる。キリスト教社会の暗部を描き出しながら、しかしキリスト教に対する未練は半端なものではない。『怒りの日』は、17世紀の魔女狩りの話であり、魔女狩りを巡る牧師一家の悲劇を描き出している。

裁かるるジャンヌ」では、火刑台に上るまでのジャンヌダルクの情動を、下から固定したクローズアップのカメラでずっと捉え続けた。ジャンヌを裁く人々がそこで通過していく過程でも、ジャンヌの顔に示される表情というのが、特に変わることは無いという反復される顔つきの強烈な一貫性というのが、執拗なほど焼き付けられるような特定のイメージに対する強調であり執着だった。極度に執着された、ジャンルの悲しげな、苦悩を湛えたある一つの表情だけが、ずっと強迫的に、そのフィルムから現世にまで溢れ出て続き出すような気にさせる、反復強迫的な何かの訴えを、イメージの力を借りて、無声映画の力を借りて、表出させることにそれは成功していた。この強迫的なイメージの強度を固着させている、この映画の作り手とは一体どんな人物であるのだろう、その狂的なイデアの形成された生い立ちについて、ついつい推測せずにはいられぬ程のものであり、一つの苦悩の象徴化された図像だけが、そこから観てしまった者達の脳裏にはずっと残り続ける。何か一度それを体験してしまうと忘れられなくなってしまうような、抽象的なる深い苦悩の透徹した結晶化であった。デンマーク人の映画監督だったカールドライヤーにとって、「裁かるるジャンヌ」をフランスで無声映画として作ったのが1928年であり、そこから1943年の「怒りの日」においては、ジャンヌの時のテーマについて、更にそれをドラマ仕立てとして分かり易く組み直した、社会とキリスト教的統治という、他に逃げ場のない状況の設定において顕れる社会的な情念の強度の限界について、非常に精密に描き出すことに成功したものとなっている。中世の社会において、街はある排撃の強度によって常に、共同体の安定と代謝を維持している。町角には、吊るせ、燃やせ、という合唱の行進が日常的に起きている。社会にとって魔女狩りの儀式が、定期的なエネルギーの放出として必然であった時代の描写である。

17世紀デンマーク社会の魔女狩りの集団的光景を1943年に描写することによって、ドイツのナチズムから、ファシズム的な社会統治までの連続性を、そこに込めているというのもあるが、単に中世とかファシズムとかいった状態を超えて、人間の作る共同体の維持にとって、この儀式的で象徴的な排除のメカニズムが、なぜかくも必然的に生じてしまうのかという、社会の中で生活の細部にまで潜む悲劇的な必然性について、余りに正確に描写するのに成功しているのに驚くのだ。ファシズムの時代が終わった後でも、このような儀式的で象徴的な排除、処刑の形式は、その後には新左翼的なラディカリズムを標榜する集団性においても続き残存したわけだし(日本では連合赤軍セクト内ゲバ的なものである)、キリスト教社会の場合なら、キリスト教的善性の中に潜む裏側として、その厳然たる狂気と裁く者達の司教的な権力の交換儀式が示され、告解、告白の儀式性の意味から恐ろしさまでが、何も隠すことなく、映画では明瞭に伝えられている。キリスト教社会では告白であったものが、後の新左翼的な部族的=セクト的集団性ならば、それが自己批判の儀式として、やはり同じものが再生産されるに至る。いま残っている部族的左翼の有様にしろ、学校社会のイジメからイジメ撲滅の儀式性に至る一環にしろ、会社社会的な自己啓発からモチヴェーションの洗脳的な強制力儀式に至るまで、人間の社会は共同性を成立させるために、ずっと同じ事を再生産させているのが、見事にそこから分かるようにできているものだ。

『怒りの日』では、牧師の一家を巡る、家族的な悲劇の構造を追っている。神経質の目立つ中年牧師の後妻として、若い妻アンナがその家では迎えられている。牧師の一家は、中心となる父がいて、その母親としての婆がいて、若い青年の息子がいて、そしてそこに後妻としての若いアンナがいて、アンナの母親がいた。家の中で実質的な権力構造を考えたとき、父方の婆が実権を握っている。アンナ方の母親の婆は、魔女の疑いをかけられて、教会の裏に当たる部屋で、牧師達の監視のもと、拷問の儀式にかけられる。実際にヨーロッパであったはずの魔女裁判について、リアルな描写がなされる。この儀式から引き出そうとしているのは、「告白」である。真実という次元、しかしもちろんそれはあらかじめ答えの定められた定款としての真実の文面を、拷問にかけられた主体が、自分の真実として告白するまで、年老いた婆の身体に、魔女裁判の拷問の鞭が加えられる。直接暴力を加える描写ではなく、それを老婆が間歇的に発する痛みの叫び声として、不気味にかつ効果的に描写しているのが、リアリティとしては完璧なものを、ドライヤーは編み出している。ここまで人間の社会的な狂気の存在について、突き詰めて映画形式で示しえたものとしては、ドライヤーとはやはり映画史においての最前衛にいたのだろう。例えば、70年代に『エクソシスト』を作って成功させたウィリアム・フリードキンは、エクソシストの前提としてドライヤーの『奇跡』を意識して研究したと言っている。ドライヤーが「怒りの日」で描き出した共同体批判とは、単にキリスト教社会の説明を超えて、その緊密で充溢したリアリティと込められた情報量の巨大さにおいて、「人間」構成の批判として、普遍的な閾にまで、どうしようもなく食み出し、達しているものである。