同時代ゲームからは逃げられない空の色

今日はちょっと本を調べに神田まで出た。池袋から丸の内線の地下鉄で、御茶ノ水に降り、そこから、今日は曇り空の下の、蒸しきった空気の中で、大きな坂を下っていく。御茶ノ水駅に架かる古い高架橋を渡る時、この橋の架かり方が、なんかいかにも昔に設計されたもので、今の建築技術だったら、こんな橋のかけ方はちょっとしないだろうと思われた。なぜならよく見ると、この橋は危なすぎる。通りながら途中で足を止めて橋の下の川までの距離を見ていると、きっと飛び降りたくなるような気分にさせる、そんな橋の架かり方である。下の川は何か都会の不透明さを凝縮させたような深い緑色の水面を湛えている。今までかつて、この橋から飛び降り自殺した人は、何人くらいいるのだろうか?そんなことを想像してしまう。大江健三郎の「われらの時代」という小説があったが、あれのラストでは、この橋から見下ろしながら、自殺すべきか否かを躊躇っているという主人公の内面描写で締め括っていた。これだけ距離の高い橋を大都会の真ん中に設けるという設計は、今ではないのではないかと思う。見ていると、いつでも死にたくなってくるような、何か立ち止まってはいけない、遠い恐怖を煽っているような古い橋だと、改めて思った。

駅から大きな坂道を下る。安売りの楽器店が並ぶ通りは、いつもちょっとした好奇心に駆られてしまう。明大の横を通り、神田の古本屋街の並びを通る。ずっと歩いていって、岩波の書籍センターで本の在庫を調べた。知りたかった情報を確かめて、また通りを更に歩く。高速道の高架を潜り、九段下の駅から地下鉄に乗った。地下鉄を軽く乗り継ぎ、池袋で降りる。こんどはリブロで、チェックしたかった雑誌を調べる。まず早稲田文学で、スガさんの、吉本とクロカン論文を立ち読みする。ざっと眺めたところなかなかの力作論文である。僕にはこれが相当面白いのだが、これは文脈の分かる人、共有する人には面白い論文だろうが、普通の人にはちょっと全く分からないかもな、とも思った。

それからinter-communicationで斎藤環のインランドエンパイア論を立ち読みする。これにはちょっと、目が洗われる思いをした。斎藤環の論考によって、なるほどね!デヴィッドリンチというのは、普通、このように見るものなのかというのが、余りに明瞭に理解できたからだ。現在における批評的コードの基準を、痛切に思い知らされたわけだ。リンチの映画とは、普通このように受容されるものなのかということである。要するに、僕が前に書いたデヴィッドリンチの意見に対して、突きつけるような意見にもあたるのだが、僕の意見とは、それではもっと田舎臭い意味での、普通の見方の延長上だったということにもなる。氏の意見から鑑みれば、僕の意見とは「典型的な映画的神経症の構造」であり、否定神学的であるということになるのだろう。

斎藤環によれば、デヴィッドリンチの映画において、謎解きに対する解があるように見るのは、映画的神経症の落とし穴にはまるものである。夢に対する現実の優位のような解釈を退けるように、インランドエンパイアでは、複数の世界によるフレームが、同時進行で並列しており、そのうちどれかがメタ現実としての解を持つものではなく、むしろそれぞれのフレームが同じようにメタフレームを主張しているという平行性にある。つまり映画的仕掛としての、物語世界の為のベクトルが、幾つか種を撒かれて立ち上がることによって映画は構成されているが、それらベクトルは収束するものとはならずに、リンチによって拡散されてしまうものとなる。『ここで我々は思わず、リンチはやっぱりリンチだなと、呟かずにはおれないのだ。』この複数的な世界の平行性において、超越論的審級のようなものはありえないという話である。それでインランドエンパイアを見るためのツボというのも、結局、皮膚の話=表層の話であり、ローラダーンの皮膚の描写に注目せよ、不自然に繰り返されるあのクローズアップの凄さを見よ、という話になっている。斎藤環の論にとって前提になっているのは、氏の以前の著作「フレーム憑き」にあるマルホランドドライブ論であるそうなので、それじゃあこれもちゃんとチェックしなければならないなと思った。

デヴィッドリンチとは、謎掛けする素振りを明らかに作り出しながら、その謎解きの構えを、必ず脱臼させていくところに、何か子供の悪戯的な企みの愉快さというのが、リンチのセンスにはあるように思える。だからこれには本当に、裏がないのだろう。これはセンスの問題であって、こういったトリックの前提になっている映画の文法、物語の文法というのは、標準的なものには違いないわけで、だから謎に答えなんかないよという素振りを漂わせていても、それもまた見せ掛けであって、実際は、文法に則った明瞭な規則の世界から、リンチが外れていることもないのだろう、と僕の見方では思うのだが。だからこのイメージに解なんかないよ、という素振りをしつつも、そして実際にそこにはただ純粋なセンスの問題があるだけで、解はない薄っぺらな表層の上でリンチの世界は組み立てられているが、だからこそ逆に、この世界は正当法にも規則で解けてしまうものではないの?とも思われ。深みがないが故に、逆に結果的に出来上がった機械の仕掛けは、論理的でありうる。僕には、そんな気がするのだが。

デビッドリンチによって、結果的に、世界のリアリティを、現実の正確さとして示すことができるのだが、それは別に、世界の現実性が一義的に収斂することができるという意味ではなく、世界の複数性、現実の複数的な平行性のリアリティによって、現実の正確さを再認識させるものとして考えることはできると思うのだ。いずれにしろ、同時代の他者の意見というのは、ちゃんとアンテナ立ててチェックしておかないと、自分の意見もちゃんとまとめることは出来ないな、とは改めて、立ち読みしながら、汗をかきつつ自覚したものだったのだ。