デヴィッド・リンチの奇妙なハッピーエンド

インランド・エンパイア」の終りは、あれはハッピーエンドだと考えてよいのだろうか?それは奇妙なハッピーエンドの在り方である。主人公である、映画の中で世界観の進行をそれまで導いてきた主体であるところのローラ・ダーンだが、彼女は最後に生きている。それでは、最初にあった老婆の予言をはじめとして、幾つかの不吉な予言とは、結局外れたのだろうか?映画の中で殺人は幾つか起きた。しかし、それはまず映画の中で撮られていた映画の中の事件であり、「映画の中の映画」の出来事以外に、殺人は幾つか起きていたのかもしれないが、それが現実の殺人だったのか妄想の出来事だったのか、区別し確証できる手立てはない。演じられた女優としてのローラ・ダーンは、自分は殺されはしなくとも、他人を殺したのかもしれない。しかし、最終部、エンディング・クレジットで、部屋の中で、ロスの売春婦たちとソファで親しげに寛ぎ、絶妙のサルサが皆で踊られるとき、ソファの中で、ローラ・ダーンの姿とは、とても幸せな感じに見えて、もはや行きずりの友となったロスの売春婦たちと、パーティの具合を眺めながら楽しんでるといった風情だ。

けっきょくインランドエンパイアとは、一個の女優が、非常にリアリズム的な残酷体験をしていく彼方で、現実にはハリウッドにおける成功を正しく手に入れるという、ハリウッド的欲望の在り方にとって、肯定的なストーリーを示すものとなっているのだ。主人公の女優、この世界像を認識する主体としての女優は、想像界の極限的な隆起に巻き込まれる体験を経て、現実的世界と自分の、潜在的なる正しい関係を結んで、結果的にはそこに戻ってきた。その体験は、もう身の毛もよだつような凄まじい体験、恐怖の体験だったが、彼女は、一個の認識主体、かつハリウッドで成功を掴むための野心的で積極的な主体として、正確な世界像を獲得することによって、再び目の前の現実世界に対して、正常に主体化することに辿りついた。これは彼女にとって迂回によって獲得された、結果的なハッピーエンドではないのか。

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同じハッピーエンドとは、「ブルー・ベルベット」の時にも、デヴィッド・リンチによって与えられているものだ。カイル・マクラクレンが主人公の若者として、認識するための主体を与えられ、誘惑する謎の未亡人に引き付けられ、アメリカの田舎町に潜む裏側の世界を体験した後に−そこではあのデニス・ホッパーが性倒錯者的な町のマフィアを演じていたが−、カイル・マクラクレンは迂回路としての危険な冒険を体験した後に、最後は彼の恋人、若い頃のローラ・ダーンが演じる女の子と、もう一度出会い直し、それまでよりも強く結ばれ直すことになる。最後にカイルを抱き締めるローラの姿は、幸せそうである。しかしそのローラの表情の周囲には、不協和音の存在も決して見逃すことができないようにできている。眩しい太陽の光線の下に、夏の花が強く、逞しい赤い花弁を広げながら咲いている、象徴的なイメージの元に、ジャズスタンダードとしてのブルーベルベットが流れ、切り取られ捨てられていた誰かの耳朶の記憶を後にして、映画は終わっていった。

ブルー・ベルベットでは、若き日のカイル・マクラクレンとローラ・ダーンが、現実と想像の境界を激しく壊されてしまうような冒険的迂回路を経て、強く結ばれ直すことによって終わるという意味では、強烈にネガティブな想像的磁場に媒介された、現実的な世界観の獲得として、ある種ハッピーエンドが、実現されていると考えてよいと思う。現実的な、カップルの結婚に至る過程とは、ニヒリズム的な世界観を捉え直すことにこそ本質があり、正しく主体化された後に、厳密に再把持された正確な決意性、ニヒリズムの絶対性に裏打ちされた、正確な愛の選択ということで、最も経済論的に無駄のない、厳密なカップルの結びつきが実現されている。ここでは、世界の限界認識によってカップルが媒介されているため、その後どんな状況が襲ってきても、本質的にそのカップルが動揺するようなこともないのだろうということが、示されうる。(しかし実際には、カイル・マクラクレンとローラ・ダーンカップルは、その後に破局する筋の現実性というのも、また別個なストーリーとして充分に考えられるのだが。)

なぜ、インランドエンパイアとブルーベルベットが、ある種静穏なるハッピーエンドのストーリーだと括れるのかといえば、それが極限的な危険と残酷を巡る想像的体験を潜り抜けてきたところから、ともに現実と主体の正確な関係を結ぶことに成功するストーリーになっているからである。現実の有様、即ち現実界で起きている、実際に主体を取巻くのだろう、残酷で野蛮な関係性を把握することによって、結果、主人公が日常性としての象徴的世界に回帰してきたとき、もはやすべての恐ろしい可能性とは、既に認識の枠内に入って了解可能なものになっているということになる。このとき、主体は既に世界に対する強靭な免疫力を獲得したのだと言ってよい。故に、経験によって強くなった主体、カップルの姿がそこにはあるのだ。あの危険な悪夢の体験をしなければ、主体は現実の社会的なポジションについて、決して知ることはできなかった。瞑想的な過程によって、他では体験できないような残酷で現実的な体験を潜って来たが故に、日常性に対して再主体化することは、主人公にとっては余裕なのである。それはインランドエンパイアのラストで、部屋のソファの中から、寛いだ余裕の視線をもって、もはや友になったような売春婦たちがサルサを踊る姿を眺めている、ローラ・ダーンの楽しげな目を見ればわかる。

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この残酷な現実に媒介された、奇妙なるハッピーエンドによるリアリズムとは、元を辿ればカフカこそがよく知り使っていた手法である。不気味なハッピーエンドの示し方。「変身」のエンディングを見てみよう。虫に変身し図体を持て余していた兄が死に、家族は結果それで安定を獲得した。会社に行けなくなった虫としての兄が死ぬことで、家族は新しい平和を獲得するのだ。ザムザ家の妹は、兄が消えてから生き生きとし、父母妹の三人は、久しぶりに外出し、もう外は暖かく気持ちのよい季節になっていることを実感する。いつのまにか豊かな肢体の女性になっていた妹の姿を、両親はそこで確認するという終わり方になっている。想像的な悪夢の体験を媒介した結果、生き残った人々に見出された、現実世界と主体の関係とは、正確なものに到達した主体性であるがゆえに、肯定的なものとなっている。それはニヒリズム的で残酷なものでありながら、認識によって正確なものである主体性であるが故に、現実的で肯定的なものの獲得となっているのだ。

デヴィッド・リンチの美学的意識においても、この現実認識の、徹底的であるがゆえの残酷さと正確さが、美意識における、現実的で物質的な前提として、常に生々しく機能し、露呈されるように出来ているが故に、それはリンチの凄まじい、決定的な強度の結晶を可能にする、サスペンスのリアリティを可能にするものである。

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物自体に降りていくこと、物自体の次元に正確に下降していくこと・・・それが映画によって試されている。このとき、物自体と日本語で言ってしまうと、その本来のニュアンスが見失われてしまうのだが、カントが示した意味では、物自体の物とは、広い意味での次元であり、それは事それ自体、事象それ自体といった意味をこそ指すものである。

映像が、物自体に焦点を絞り、下降していくとき、インランドエンパイアにおいては、古いレコード機器の針が降りていくイメージをクローズアップしていく。レコードにおいて、音楽はもう終わっているのだが、針はいつまでもレコード盤の上で、何も録音されていない部分を繰り返し擦り続けており、今になっては懐かしい、あの針が擦るノイズの音だけが、ずっと残響のように続いている。盤は回り続けている。しかしそれを止める者はいない。

物自体にまで、降りていきたい、主体の分析的な欲望が動いている。それは過去の出来事を分析する主体の願望、トラウマを再現前化させることを、欲望している主体の姿である。それは、薄暗い、カーテンを閉め切った部屋の中で、テレビの画面の砂嵐を眺めながら、目には涙を浮かべている、ポーランド系の黒い瞳をした女性の顔である。このポーランド系女性の存在とは、映画の中では、ローラ・ダーンと分身的な像の関係にあたる。今撮影している映画とは、本来、このポーランドの女性が主演していて完成させるはずだった、頓挫した映画のリメイクなのだ。

過去のトラウマを、もう一度リアルに、部屋の中で、この場所に呼び寄せることには一体何の意味があるのだろうか?彼女にとって。あるいは映画を観る者にとって。おそらくそこには、知ることを欲望している主体の姿があるのだ。本当の事を知りたいと願っている。世界の裂け目に嵌ってしまって、身動きの取れないように入り込んでしまった、隙間の奥から、現実と自分の、正確な関係を、正確なポジションを、正確な出来事の経緯を、認識したいと欲している、涙をたたえた顔の女性が、そこにある。