『インランド・エンパイア』

昨日は新宿でデヴィッド・リンチの新作『インランド・エンパイア』を見ていた。リンチの新作は180分の長編映画となっており、公開の劇場も限られていて、最初から集客を当てにしたものではないようだが、三時間の間、特に飽きることもなく、充実したイメージの流れを満喫できた。相変わらずのリンチ節のスタイルということもあるが、リンチの映画は久しぶりだし、充分に楽しめるのではないかと思う。今回の作品で、リンチは自分のスタイルを深化させたといえるのだろうか。再び、デヴィッド・リンチの存在を確認できるとともに、この人がずっと以前より反復している構造の正体が何なのかについて、改めて明瞭に説明しなおす手掛かりとなっているものだろう。前作の「マルホランド・ドライブ」に引き続き、リンチが取り上げているテーマとは、再びハリウッドであり、ハリウッドで映画を製作するという行為を巡る、自己言及的で鏡像的な反映を、何重にも張り巡らせた構造を、イメージの積み重ねによって作り出している。リンチ版の、映画とは何か?という問いと定義の形式を洗練化し、今までの彼のそれよりも更にわかりやすい、明瞭な問題形式として示している。

ハリウッドである映画の撮影が始まるのだが、俳優を選出し、役を与えられた女優は、家でその電話を受け取り喜びに友人と手を取り合い震える。選ばれたのは、男と女、二人の俳優だが、改めて彼らに告げられる話とは、この映画が実はある映画のリメイクだったものであり、それは曰くつきの呪われた映画であるということだ。元は、ジプシーの民謡を元にしたポーランド映画だが、主演の二人は撮影中に殺されてるという過去を持つ。映画は、不倫の関係をキーにしてストーリーが回転するものだが、主役の二人の男女は、映画を撮りながら、やはり似たような不倫の関係に手を染めていく。ローラ・ダーンが演じる女優の役を中心にして、映画の世界は展開していくが、やがて彼女自身、映画と現実の区別が付かなくなっていくというもの。この区別が付かなくなっていく、現実と想像の垣根が崩れていく、大きな流動の渦に飲み込まれていく時間の進行というのが、この映画が与えている体験の重要なファクターである。物自体に映像のフォーカスが近づいていくことによって、過剰に溢れ出るイマージュの流れに媒介されることで、現実界の次元に正確に近づいていくことが、デヴィッド・リンチの映画的な目的とされている。

まず、現実と主体の正確な関係を明らかにすること。現実とは、常に現実そのものとしては認識されていないし、また認識されることもできない。象徴(言語的次元と意味の次元)と想像(イメージとイメージの内的で身体的な接合)の駆け引きを構成として媒介することによって、主体にとって現実がどのような場所にあるのか、主体は現実にどのような形で巻き込まれているのかを、認識として示すことが可能になる。日常的で平穏な生が主体にとって何気なく営まれている次元から、現実界としての主体が本当に巻き込まれている場所、そして未来には、それは破局の到来、悲劇的な事件として、到来する事になるのだろう、現在の主体が受動的に置かれている危険なポジションについて、正確な認識を構成することを、映画の働きによって要請している。

現実のポジション、主体が本当に置かれている場所の構造とは、無意識的な症候としてのみ、まだ到来している。それは夢の中で体験されるような不安であり、漠然とした、意味の分からない形象によって自分が追われている、曖昧な恐怖である。日常的な視界に対して、現実界から危機的なサインが送られてくるとき、それは唐突で、露骨に暴力的なイメージとして、主体に対して出現する。現実の危機、現実のポジションとは、本来、常に野蛮で、善悪の見境がなく、露骨に暴力的で、剥き出しの欲望と打算に溢れている。これは現実界として抽出されるときの、一般的な主体の状況である。

日常的な時間性の進行の中で、主体がこれに気付くとき、危機的なサインとして、ちょっとした現実の裂け目を発見したところから、唐突に思い知らされることになる。そのとき主体にとって、それまでの過去もフラッシュバックのようにして、唐突なスピードを持って甦り、再把握される。インランドエンパイアにおいても、現実界から主体(映画の中の女優を演じるローラダーン)に発信されているサインとは、常に強迫的で暴力的なサインになっている。この体験される強迫的なサインが、本物のものなのか妄想なのか疑りながら、手探りしながら、女優は進まざる得ない。

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インランドエンパイアの全体構造にとって、事件の象徴的な開始を告げる指標とは、冒頭で示される、家を訪れた老婆の予言である。老婆が女優に向けてソファの上で語りかける。老婆と女優の顔は交互に、極端なクローズアップを繰り返す。それは二人の顔の細部のズレを極端に強調し浮き上がらせる、強迫的に顔の歪みを繰り返すイメージの、カメラによる捕獲である。予言の構造は、ありきたりなものである。予言は、現実なのか悪戯なのかを、ずっと映画の進行上では試されていくことになる。これは単に凡庸で一般的な映画の構造である。観客は当然ながら、映画的なお約束の一般的前提として、この老婆の予言を受け取っている。これから、何かホラーかサスペンスに近いような、映画の構造が、三時間近く展開されるのだろうという前提を、メッセージとして受け取る。予言はたぶん当たるのだろうが、予言がそのまま当たってしまうことは面白くないので、何か紆余曲折を作った挙句、最終的に、捻った形で、監督は、この予言にまで再び連れて行ってくれるものなのだろうとは、観客は普通に読み取ることができる。

悪い予感は必ず当たる、あるいはそれは思い過ごしで、主体の側からの投影された構造的な妄想なのかもしれない。主体の判断の必然性とは、常に、予感(予言)は本物なのか、妄想なのかを判別しながら、判断力としての主体性を、一貫したものとして立ち上げ、確認し直さなければならない。この判断力を確実なものとして鍛え上げることが、いわばデヴィッド・リンチ的な映画の仕掛として、巧妙に構築され、提供されているのだ。リンチの映画で、観客が体験しうるものとは、判断力における極限的な試練であり、テストである。それはヒッチコックが、映画として、装置として提供していた教育的機能と同じものである。リンチの映画を体験しえた観客とは、自分の日常においても、判断力を正確に鍛え抜かれている。現実的なものに正確に近づくためには、間接的にイメージの効果を媒介しなければならない。イメージとはそこでは、過剰なものが荒唐無稽に洪水を起こし、氾濫する様として現われている。イメージの体験は象徴界の示す配分として導かれ、このとき象徴界とは装置の構造として、構造を司るブレインとして厳密に機能しながら、次の段階へと移動をしている。このフォーメーションを絶妙にずらし、異化し、組み替えるものとして、象徴的な交換の作用、意味の組み換えが映画によって体験されることになる。

リンチが映画という装置によって考えているのは、今までも本当は、潜在的には一貫してそうだったはずなのだが、それを観る者としての主体が、現実を分析し直す手掛かりと構造を明瞭に把握し直させるものであり、このリンチ的な抽象装置の媒介性こそが、主体と現実の関係を正確に摘出させるということで、単なる娯楽映画を超えた、抽象的な救済装置であり、厳密なる学習装置となっているのである。これは映画的な階梯としては、最高度の抽象力を装置として実現するものとなっている。そういった観点から、改めてリンチのディスコグラフィーを見直してみたとき、リンチの思考していることの凄まじさが、もう一度切に体験されることだろう。リンチはずっと、同じ構造、同じ仕掛けについて追求し、張り巡らし、構築している。それはヒッチコック的な映画の機能を正当に継承するものである。