デヴィッド・リンチにとって「リアル」とは何なのか?

う〜ん。。。

リンチの「インランド・エンパイア」だが、ネットで他の人々のレビューを見ていたところ、どうも僕が考えたように、この映画を見ている人がいそうもないということに、少々ショックを受けてしまった。それはどういうことかというと、要するに、デヴィッド・リンチの映画について、それをリアリズムだと認識して見る人というのが、僕以外に見当たらないということなのだ。デヴィッド・リンチというのは、本当にリアリズムと関係ないのだろうか?ここで僕は考え込まざるえない。僕が、リンチの映画をはじめて見た時、それは二十年位前だろうが、ブルーヴェルヴェットやイレイザーヘッドを見たのだが、そのときから、僕はこれはリアリズムなのだろうと・・・本当は、この人はリアリズムなのだろうと、思いながら見ていたのだ。実は。しかし、リアリズム的に解釈したデヴィッドリンチの感想を語ったとき、友人に説明しながら、なかなか納得してもらうことができなかったという経験も、ままあったということは、ある。そんな解釈を、孤立してまでも語ってしまうというのは、僕のミス、落ち度なのだろうか?

普通に、デヴィッドリンチが受け入れられ、受容されている様とは、どんな感じなのだろうかを、まず考察してみよう。80年代に幾つかリンチの作品が日本で紹介された後に、90年代に入ってツイン・ピークスの大ヒットが来た。リンチがメジャー化したのは、これ以降である。リンチは、特別深く考えなくても、一般的にも受け入れられ、消費されうる対象であったことが、これで証明された。もちろん、マスの市場でリンチが成功したと云う事は、自分の指し出す世界について、特に深く考えて見る必要もないのだということを、改めて彼自身示したということにもなる。それでは、普通、人々はリンチ作品をどのように見るものなのだろうか。幻想に始まり幻想に終わる映画。不気味な映画だが、妙に快感を味わえる映画。映像には意味なんかないということを、はっきりと断言できる映画。ただ、意味のわからない、グロとエロの入り混じった映像の体験について、飲み込まれていき、映像自体はとてもカッコいいので、我を忘れて堪能できる、結果的にはとてもエロチックな映画の世界。・・・といった条件が、一般的なリンチ作品の価値ということで、通っていると考えられるだろうか。ツインピークスが、テレビドラマとして広く大衆的に受け入れられたとき、それは現代的なセンスとしての、ナンセンスから非意味の世界性を体現したことに、その一般的な支持の根拠はあるわけであって、これがヒッチコックの時の大衆的受容の有様、テレビのヒッチコック劇場のシリーズの時の受け方と異なるのは、ヒッチコックの世界には、まだ現実に対応しうる意味の次元が明確に機能していたが、リンチの場合、その対応性とは、もう飛んでいる、意味の対応と拘束からは、完全に解放されている映像的センスということで、90年代以降の広く一般的な支持を受けたということに当たる、ということになってしまう。

ドラマと文学における、意味からの解放とは、即ち、示されたイメージと出来事に対する、意味づけから現実への対応性の解放として、進行した。文学やイメージにおいても、その機能する実体とは、本当は意味の支配から自由であったということが、改めて時代的に確認されながら、進行したのだということになる。このナンセンス性から非意味性の進行は、古くは近代的な対応物として、ルイス・キャロルジョイスに始まっているのだろうし、その後には映画の時代が始まり、エイゼンシュタインに示されるように、映像と意味の体系的な構造というのは、映画の機能として拡大生産された。そして意味と言葉の問題から、映像と意味の問題へと拡散したシステム論的な抽象性の問題とは、映画体系の自己批判的な問題となって、映像の意味からの解放、そして映像と意味の自立性の証明といった段階へと進化していった。映像と意味の自立的な独立性の問題を立てられるものとして、その最先端にあるのがデヴィッドリンチ的な作品群ということになる。

それではデヴィッド・リンチ作品の構造的な同一性とは何なのだろう。イメージの内在的な要請にのみ従って、イメージをそれ自体で膨らませていった結果、リンチ的な美学の世界が成立しているということになる。イメージには、あくまでも意味はないし、その現実的な対応物もない。イメージはイメージである。それは自立しているし、自足している。この圧倒的なイメージの屹立性を、イメージ自身の持つ気高さにによって実現できているが故に、リンチの美的世界とは、不動の逞しさを持つのだというわけである。

イメージはイメージ自体の内的法則性を持っている。このイメージのイメージ自体による生成を実現しうることこそが、リンチの才能であり、リンチのリンチたる由縁であるということになる。それではリンチにはリアリズムという形容詞は当たらないということになるのだろうか?それはそれでちょっと異なる事態になるだろう。それでもリンチの映像が発している強度というのは、何らかの形でリアリズム的であるからだ。現実的な対応が、そこではもはや失われているのに、リアリズム的であるとは、どういうことかというと、イメージがイメージ自体で生きている、生きのびているものだということを、リアルに証明しうる生き生きとしたイメージ自体の生に到達しているから、それはイメージにおけるリアリズムなのだということができる。そこに対応的現実があろうとなかろうと、それはイメージの強度と生態にとっては、充分にリアリズムなのであり、リアルであるが故の証拠としての、強烈な強度を放っている。

イメージにはイメージ自体の法がある。イメージはそれ自体の法で生き、機能しているのだと云う事を示す、証明する。現実とは、イメージとは別の位相に生きているものである。現実には、現実それ自体の法があり、その掟に則って機能している。この現実の法とイメージの法とは、本来別のものであるのだ、分離しているのだ。・・・こういった考えが、デヴィッドリンチの現実的な消費者への受容を支えている。また実際に、リンチ自身、本人はどう考えているのか、リンチは何を考えて映画を作っているのかといえば、幻想には幻想自体の法があり、現実による幻想の支配よりも、幻想のそれ自体の法を発見することによって、イメージの自立的な世界観を示したかったというほうが、近いのだろうという気はする。

それでは、もはやこの解釈の法で支配的となった現代社会の現実において、イメージにおける現実の関係とは、どのようなものとして措定されるのだろうか。イメージが現実に近づいていくこととは、もはや意味がなくなったのだろうか、あるいはイメージの現実への再帰性とは、もはや別の段階の話になってしまったのだろうか。僕が考えるに、イメージが現実に近づきたがる、現実に近づこうとする本能を持つというのは、それもまたイメージ自体に内在する必然的な法則の一部だという気がするのだ。つまり、イメージとは、その本能として、自ずからそれが生まれでた母体、起源としての場所、つまり現実自体に回帰しようとするのは、それもまたイメージの法の本質的な一部なのである。だからどんなにイメージと現実の独立性を云われた所で、それがイメージである限り、常にそれは現実への回帰を狙っているのだといえよう。