嫌われ松子に、人は何をか投影するのか?

6.
映画『嫌われ松子の一生』では、それが単にジャンルとしての悲劇として提示されているのではなく、悲劇の構造を笑うことによって汲み上げようとするものになっている。この映画の中で一貫して力を吹き込んでいるものとは、中島哲也監督によって示されている笑いの力によってである。

7.
観客は『嫌われ松子の一生』から何を読み取って納得しているのだろうか?「人間の価値とは、人に何をやってもらったかより、人に何をやってあげたかである」という教句が映画の中で繰り返される。そして新約聖書のイメージが繰り返されている。「私が松子を殺しました!」と宣言し、自分の顔を自分で殴りつける男は、顔中が傷口の縫合の跡で覆われている。男は河原に座り新約聖書に読みふけっていた。男は松子と最後に同棲していたことのあるヤクザである。男は刑務所に入っていた時期に聖書に啓発されている。

何かの歴史的な涙腺のコードが、嫌われ松子というキャラクターの形式にまさに合致している。松子の性質とは、社会的にわかりやすい、理解されやすい物語のコードとして、明らかに前から潜在的に実在しているものである。

8.
キルケゴール的な症候として最も顕著なものとは、主体性である。

9.
松子の存在の正体とは、一個の情熱のありようである。キルケゴールの言うように、我々はそこにある情熱について、常に新しい名前をつけていかなければならない。松子もそのような情熱のための一個の名前なのだ。松子=待つ子であったとは、劇の途中で明らかになる。松子はしかし、最終的な幸せを待ち続けながら、それが現世によっては与えられなかったということがファクターになっている。荒川の河川敷で夜更けに死んでいくとき、最後に彼女が夢の中で上っていくものとは、まさに天国への階段である。

10.
『人間の価値とは・・・』というテーゼが映画の中で語られるとき、それは常に『・・・人に何をしてもらったかより、何をしてあげたか・・・だよね』というように、語尾には確認を、誰か不特定多数、目に見えない他人に向けて同意を求めるように言われている。松子の存在が確認を強いているのは、このような教条的な信条である。

キルケゴールの問題性とは、他ならぬ単独性の問題性である。単独性とは本当に実在するのか?我々は実践的には、本当はこのような問いに常に躓き続けているはずだからだ。

11.
しかし我々は、ここで主体性を強化するために、嫌われ松子を見ているのだろうか?いや、そうではなくむしろ主体性を笑うためにこそ、我々は嫌われ松子のエピソードを見るのだろう。