いじめ問題の周期性

  • 最近また、政府とメディアを含めた大々的なイジメ防止のキャンペーンが為されている。文部科学省の立場からは、高校の必修科目飛ばしの問題とイジメ防止の為のキャンペーンが同時に出てきている。この二つの項目に何かの同期性があるというわけでも別にないのだろうが、学校という枠組みを集中的に問題にしようという動きが、社会的な俎上に公的なやり方で載せられているのだ。
  • 資本主義社会だろうと共産主義社会だろうと、どうやらイジメはなくなりようがない。何らかの形で姿形を変えて、手を変え品を変え、いじめに該当する動きというのは集団的な力学の中から出てくるのだという認識は、どうやら理解されつつある。人間社会における淘汰の構造というのは、必ず何らかの形で出てくる。
  • そして社会の中で、左翼を称するような集団性だから、そこにイジメがないというわけでもない。全くない。むしろ左翼主義を自称するものこそがイジメを起こすものとして現実にはあるということさえある。過去の連合赤軍の時代のようなケースを持ち出すまでもなく、そういう意味では左翼を自称している空間が、イジメについては最も怖い、最もシビアなのだ。それは無意識裡に新しいタイプのルサンチマンと排除のスタイルさえも先取りしてしまうだろう。左翼の場合、単なる世直しというよりも、もっと歴史的に開き直ったものがある。そこが怖いのである。他人を攻撃する意識と儀式性が最も屈折しうる。左翼主義が常に、最終的には内ゲバによってリセットされているというサイクル、道理もその辺にある。
  • イジメは常に何らかの形で機能している。社会が淘汰的なシステムとして維持されるのだからそれは必然的である。会社社会、大人の社会がそうなのだから、それが学校の社会に反映されてあることは当然にあたる。ただ社会の中の成分として、全体的な割合において、イジメの度数が少なくなる時期と大きくなる時期に分かれているのだろうということが、事実として確認できるまでなのだ。今、公に出てきているキャンペーンによると、現在は周期的にいってイジメの度数が大きくなっている最中にあたるということなのだろう。同じような、政府−マスコミ的なイジメのキャンペーンは、もちろん過去にも経てきている。つまりイジメの度数が上がる現象とはどうやら周期的にやってきているということなのだ。
  • もちろん、だからイジメがあっていいという積もりは毛頭ない。そこは確認しておきたい。イジメというのは逆説的な次元にこそ生じやすい、その生態がアイロニカルなものである、だからそこに気をつけるべきだと謂いたいのである。それが見据えられたとき、最大限に合理的なやり方でもって、イジメの阻止はできるはずだと考えているのだ。
  • 最初に、「いじめ」という概念、それは平仮名かあるいは片仮名で、イジメと表記することによって、過去から続く苛め、虐めといった現象から一端切断して示されたのはいつ頃のことだったろうか。実はこの新しい「いじめ」、特に豊かになった日本社会の学校的に特化されて発達したようなテクニカルなイジメの現象について、概念的な認識が出来たのは、割合最近のことだろう。1985年、それは岡田由紀子の自殺や中野区鹿川君自殺の「生き地獄」という言葉を生んだ時期にあたるはずだ。85年前後の一連の事件とそれに続く政府・マスコミ的なキャンペーンの以前では、いじめというのは、むしろ子供達の間の自然現象であり、神聖なる子供達の世界に対して大人が立ち入るべからずといった風の認識さえもが強かったのだ。つまり85年以降、学校的なイジメとはれっきとした犯罪であるという認識が、やっと定着したのだ。つまり最初に今のイジメ概念が出来上がったのが、今から20年ほど前のことだといえる。その後、イジメの防止について、政府とマスコミから大きなキャンペーンとして報道されるということは、周期的に為されているということになる。社会的なイジメ度数が高くなること、この周期性が何に基づいて起きているものなのかは、まだよく分析しきれていない。また、イジメとは本当は常に起き続けていたはずなのに、それが報道として大々的な宣伝に入るという時期を選ぶことが、政府の立場からは、どのような動機で何が理由で為されているのかというポイントもあるのかもしれない。
  • ここ最近、社会の中の、民度ならぬイジメ度が増えてきたことについては、明らかな理由をあげることができるはずだ。それはインターネットの影響である。2ちゃんねるの例をあげるまでもなく、インターネットの独自の構造、それは責任性を除去し、匿名によって為される書き込みは、無責任が放置され、人格的に分裂することも許容されうるという、新しいバーチャルコミュニティに提示された最初の基準であったはずだが、これがまさに新しいイジメの欲望を人間にとって喚起しえたこと、悪を許容する新しい繁殖媒体になって成長を遂げたのだということに当たるだろう。2ちゃんねる的な匿名掲示板の新しい慣習性は、単にWEB上だけの拡がりではなく、携帯電話のコミュニティ世界にも広がった。携帯の名無し匿名掲示板では、今では全国の各学校における匿名掲示板というのが、暗黙裡に登場し、名無し匿名で、学校内の生徒の誹謗中傷が横行している、もちろんこの慣習の流れで謂えば、それは必然的にイジメの新しいスタイルになって出来上がってくる。
  • そう考えると、イジメが周期的に出てくる背景にあるのは、新しい社会的テクノロジーの浸透に乗って機械的波及として、新しいイジメ=新しい悪がスタイルとして発生してきているのだといえる。イジメの周期性の背景にあるものとは、社会のテクノロジー的な変化であったわけである。社会の構造的な変化が、新しい悪の発生を伴ってうむという状況、必然性があるのだ。
  • 新しい悪とは、必ず新しい自由の出現と共に、その自由に同調する形で擁護されながら、その自由の隙間を突くという形で発達するものである。現在のイジメ度数の上昇とは、インターネットと携帯電話の匿名掲示板の影響から派生してきているのだろう。