京都について

1.
11月の1日から3日まで車で京都にいっていた。最初は、南尚から京都に行きたいと、せがまれてこうなった運びだ。京大の吉田寮に泊まり、ヒッピー的な交流を愉しんできた。車で京都に入った。高速道で東京から京都までは料金が高いので、道筋では部分的に高速を使った。下の道と上の道を交互に使い分けながら東京−京都間を往復したのだ。草津のインターから国道1号に入り、午前中の混雑の中を掻き分ける様に進み、京都に入る。隣に琵琶湖を控える大津市を通り抜けて京都に入ったのだ。京都という街の構造を直に見ることができるだろう。それは歴史的な街である。

大津は滋賀県のキャピタルシティ−県庁所在地に当たるが、大津市京都市は地理的に隣接しているものだ。二つの県のキャピタルが隣接してしまっているというのは珍しいはずだ。琵琶湖という巨大な湖を隣に持ちながら、京都という街は四方を山に取り囲まれている。盆地である。この地理的な条件が、かつての日本の都としての京都を成立させていたのだ。四方が山に取り囲まれているということは、まず外敵の侵入を防ぎやすい。街の防衛的な条件を把握しやすい。隣に巨大な湖があるということから、湖の豊富な恵みを受けることができる。湖と河川を使った交通にも開かれている。しかし車で京都に入ってまず気づいたことは、この土地はカーラジオの電波がたいへん入りにくい場所であるということだ。周りが山で遮られているからである。つまり京都という土地の条件とは、ある種、巨大なる僻地の条件でもあるということなのだ。盆地の構造は大きな箱庭を思わせる。外部をうまく遮断しながら自然の恵みによって繁栄しうる条件が、この土地にはうまく出来上がっていたのだ。京都をいいという人は多い。京都が好きだという人は僕の周りにも一杯いる。しかし僕の場合、京都という街はどうも好きになれないのではないかと思う。この町はある種、巨大な閉域でもありうるのだ。僕はそんな空気を感じ取った。

2.
吉田寮に宿泊した。京大吉田寮というのも奇妙な場所である。京都は空襲を受けていない。だから木造の古い建造物がそのまま残っている。京大の構内にある吉田寮も古い木造建築である。1913年、大正初期の建造物であるそうだ。黒ずんだ木の床は歩くたびに大きく軋む音を立てる。懐かしい感じの建物でもあるが、こんな感じの木造建築が今でも日常的に使用されて機能しているという例も、もう珍しいのだろう。壁に張られたビラの中に「吉田寮世界遺産」にというのを見つけた。宿泊料は一泊200円である。こんな場所が外部に開かれてあるという事自体は貴重な事でもあるのだろう。入り口の横にある大部屋で外部の宿泊者が寝れるようになっている。布団が山積みになっている。かつては吉田寮の歴史の中で労働者にも開かれていた時代もあったようだが、今ではここの情報を口伝で聞いた者が宿泊で利用しているだけだろう。

吉田寮の登場する映画も幾つかあげられる。大島渚の『日本の夜と霧』では、大学寮を舞台とした学生運動と、その後に運動によってトラウマを負った者達の葛藤が描かれていた。50年代から60年代の吉田寮的な空間が舞台になっている、強烈な映画である。強烈にトラウマチックでもあるし、その時代を覆った病的な空気を表出している映画でもある。奇妙に絶望的な映画である。大島渚自身が京大の出身なのだ。この大島渚作品の前には、吉田寮黒澤明の『わが青春に悔なし』で描かれている。1946年、日本の終戦直後に黒澤明によって撮られた作品である。戦前の京大で起きた弾圧事件、滝川事件を題材にしている。そしてヒロインを演じたのは原節子である。これもまた今見直すと強烈さや行過ぎを感じさせる映画だろうが、当時の黒澤明は殆ど社会主義リアリズムに染まっていたのではないかと思わせるような映画だ。黒澤明的な物語設定の枠組みというのは、その後に相当影響が強かったのではないだろうか。日本映画での影響もあるが、黒澤明的な展開性というのは、むしろ手塚治虫石森章太郎のような戦後の漫画家こそがよく影響されたのではなかろうか。重要な漫画家に影響を与えるということは、そのイデア性が結果としてテレビ番組やドラマの枠組みによっても大きく広まるということでもある。これらは何かイデア的な突っ張りというか、行き過ぎのようなものが感じられて、実はあまり好感が持てないものだ。戦後的な表現のスタイルとしてのヒューマニズム的な原型が黒澤明によって啓蒙的=映画的に展開していたのではないかという感じだ。しかしその黒澤明ヒューマニズムの裏返しとしての大島渚的な悲惨性というのも、やはり気味悪いものがある。いずれにしろ、『わが青春に悔なし』でも『日本の夜と霧』でも吉田寮的なものの性質というのは、よく表現されている。京都という町は大きな閉域であり地形的な箱庭だが、ある種の閉域を前提にしないと成立しない意識としての左翼性と、その結果、外部に出たものとの葛藤というのが、この二つの映画ではテーマになっている。前者では美談として、後者においては悲劇としてである。

3.
吉田寮は、汚いといっちゃあ、汚いとこではある。頑張って自治に勤しむ学生達には申し訳ないが、そこは賛否が分かれるだろう。僕らは最初四人組で車に乗り京都に到着したのだが、吉田寮で一人脱落者が出てしまった。寮の布団で寝ていたところ、アレルギーが発症、喘息が再発し、深夜に一人帰ることになった。トイレも古いし汚い。あれだけ古いものだと、どんなに清潔に使っても限界があるのだ。吉田寮を受け入れられる人と受け入れない人と二つに分かれるだろうが、今の時代では受け入れない人の方がはるかに多いだろう。深夜にひとり帰る彼のために、僕は車で京都駅まで送ることにした。車を飛ばし、僕らは深夜の京都をぐるぐると徘徊した。深夜の京都には何もない。死んだように沈黙した街である。まず京都駅にいった。京都駅の周りなら、ネット喫茶や朝までやってるファミレスでもあるだろうと考えたからだ。しかし京都駅の周囲に深夜開いてる場所というのは全く見当たらなかった。京都駅の南側は、かつて朝鮮人の集落があった場所である。繁華街としての中心部とは河原町近辺で京都駅からは離れている。つまり京都駅自体は、昔の街の構造としては離れの場所に作られたものであったのだ。ファミレス、ネット喫茶、朝まで開いていそうな店を探しに京都の中をぐるぐる回った。しかし京都の夜とは静まりかえった夜であった。京都の人とは基本的に深夜には活動しないのだ。唯一、祇園ではタクシーの渋滞に巻き込まれて車が動かなくなった。横の路地に抜けて渋滞を抜けたが、そのとき料亭の並ぶ道をしばらく通った。料亭の中では何かが起きているのかもしれない。しかしそれでも内側の出来事だけであって、外の通りにまでは何も影響していないのだ。風俗の店もはやく閉まり静まり返っている。僕らは別れる前に、回転すしでも食いたいと考えていたのだが、朝までやっていそうな回転すし、新宿にはある店でも京都にはみつからなかった。河原町の中心にはネット喫茶が二件みつかった。カラオケも何件かあった。牛丼屋、ラーメン屋、コンビニがあったが、それだけだ。後は夜の寒い風だけが吹いている。ただの田舎町で寒い夜だった。通りのすぐ向こうには暗い山々が迫っているのがわかる。僕らはネット喫茶で別れた。

4.
珍妙女史のアパートの前でバーベキューをやった。彼女は娘と二人で、京大から銀閣寺の方へ向かう間の地域に住んでいる。東京で馴染のある人々が、この界隈に多く集まって住んでいるのだそうだ。銀閣寺の手前の方には京都の朝鮮学校がある。映画の『パッチギ!』にも出てきた学校である。珍妙さんが近所の友人にも声をかけてくれたので賑やかな交流となった。

大原まで露天風呂に入りにいった。大原もまた大学の多く存する同じ左京区内にあるにしても、随分と山の中にあるものだ。左京区というのは広大なのだ。道端には猿が呑気に出てきたのも目撃しつつ車を流した。大原へ向かう山道の途中、廃墟になったガソリンスタンドに賃料月5万を払って住んでいるヒッピー的な人物がいて紹介された。使わなくなったガソリンスタンド、といっても昔の小さなスタンドだが、そこに楽器やらテントやらを持ち込んで、日向ぼっこなどをしながら住んでいるのだ。便所は裏のほうにある汲取りである。ガソリンスタンドの倉庫をドラム用の防音室にして使っているので、そこをちょっとした音楽スタジオにして使うこともできる。僕らが訪ねていったら歓待してくれた。コーヒーやよもぎ茶を煎れてくれた。大原の山を眺めながら、千何百年かの間ずっとこの山と日本人は付き合ってきたのだろうと考えた。

深夜に京大の構内で自主運営をしているバーがあるというので遊びにいった。ブラックライオットという名前のバーが校舎の地下を利用して開いていた。もう10年近く続いているバーであるらしい。朝まで営業する日も多いという。運営母体は大学の「現代社会研究会」というサークルである。サークルが学内でバーを、学祭期間限定ではなく日常的に運営するという発想は今までお目にかかったことがなかったので、ちょっと感心した。そういう手があったのかという感じだ。京大の場合は24時間ロックアウトがないから、こういう企画運営も可能になるのだろう。クラッシュの曲に『White Riot』という曲があるのでそれに因んでBlack Riotというのか?と店員に聞いたら、違いますといわれた。東大の駒場寮はもうなくなったが、駒場寮の中にもバーが運営されていた。しかし駒場寮の場合は利用する者が、最後は殆ど学外者だったので自ずから変な人達の集まる場所となり、実際の東大の学生は殆ど寄り付かなくなっていたものだったが、ブラックライオットの場合は、京大の学生達、しかも割とお洒落で優等生的な顔をしたような人々で賑わっている感じだった。店の内装も洒落ているし、東京だったら渋谷辺りのクラブの空間をそのまま学内に持ってきたような感じだ。深くてゆったりとしたソファの真ん中には、ミニスカートの女子学生二人がはしゃいで音頭を取っていた。周囲の男子学生を盛り立てていた。女子学生に挟まれてからかわれているような若いメガネの男子は、それはそれで至福の感が漂っていた。女子学生が何度も足を組み替える。・・・これはどういうことだろうか?と思ったのだが、要するに京大の周辺というのは何もないんだよ。駒場のような場所だったらちょっと歩けば渋谷にでも出られるわけで、何も学内でそういう場所を持つ必要はないのだが、京都の夜の閑散とした寂しさ故、大学構内でのブラックライオットのような場所が機能しているのだろう。