マーティー・フリードマンによるトランスクリティーク

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テレ東系の『ROCK FUJIYAMA』が絶好調である。この深夜番組が面白いのだ。ヘヴィメタバラエティとも言われる番組である。大人のロック推進化計画とも呼ばれている。深夜に奇妙な面白さを発散している番組である。いつ終わるのかもわからない。ネタ切れになれば終わるのだろう。もしかしてすぐ打ち切りになってしまうのかもしれない。しかしこの番組は制作してるサイドこそが愉しそうだ。やってる本人達にとってみればもう絶好調というところだろう。『ROCK FUJIYAMA』という番組が成立している背景とは、いわゆるロック世代がもう中年になっており、ロックについて回顧的で分析的に語れる視点が出来上がっている、幅広くロックについて捉えながら年代的にも上から下までの視聴者層を集めることができるという条件によるものだろう。この番組の主役とは「スーパーギタリスト」の肩書きで呼ばれる、元メガデスのギタリスト、マーティー・フリードマンである。彼が器用にエレキギターを使って示す表現が、それ自体で一個の立派な芸道の閾に達していると捉えることができることが、この番組を成立させうる根拠となっているのだ。あらゆる音楽、歌謡曲まで含めて、マーティーは即座にメタル言語としてディストーションの効いたエレキギターのフレーズに翻訳してしまう。この特技とはよく見れば立派な芸道として通用するのだ。ギター侍の異名によって稚拙にフォークギターをなぞりながら漫談をやる漫才が少し前に流行った。ベースの弾き語りということでパンク調の漫談をやったハナワもヒットした。その次に出てきたのは、そういった単なるお笑いから一線を画した本物中の本物、メガデス仕込みのスーパーギタリストが、最もテクニカルでマニアアックなギター芸を引っ提げて登場した事によって我々を満足させてくれる。

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何故アメリカから本場のギタリストが日本で?というのは、マーティー本人が元々、日本好きで日本語にも興味を持って、メガデスの後に西新宿に移り住んでいたという事情による。マーティのお気楽なパーソナリティが日本のテレビと合っていた。デイブ・スペクターのように変なアメリカ人が日本のタレントとして定着したというケースも多いが、マーティーもそれを踏襲したものだ。そしてマーティー・フリードマンのサポートをするのがローリー寺西である。この二人がメタル系のアレンジをされたギターでバトルしながら、日本の歌謡曲からはじめ、ありとあらゆる音楽的事象を、ロック言語、メタル言語へと翻訳して見せる技には見る眼も鮮やかに焼き付く。エレキギターによる完璧な翻訳機械と化しているマーティー・フリードマンのギターを弾く姿である。しかしマーティの行先にあるものとは何なのだろう。ありとあらゆる音楽的事象をロック言語、ギター言語に翻訳し尽くす先にあるものとは、エレキギターの終焉になることだろう。エレキギターの可能性を極限まで引き出し、やり尽くしてしまうことは、結果的にエレキギター自体を終焉させて、正しく葬ってやる境位にまで至るはずである。マーティー・フリードマンの体現しているものとは、きっとエレクトリックギター自体の寿命を時間性の強度の凝縮において焼き尽くしてしまうことなのだ。その前提として明らかになっている事情とは、ロックの終焉という史的現象であり史的現実である。ロックとはもはや、実際には終焉してることがリスナーにもプレイヤーのレベルにも体感されているから、『ROCK FUJIYAMA』のような、いい歳した大人達のためのノスタルジックなレトロスペクティブを与える語り構成が番組として、今になって可能になったのだ。

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さて、番組ロック・フジヤマにおいて、最も山場に当たる時間帯とは「Rock Meets the Rising Sun」というコーナーである。このコーナーではDJのシェリーが、まずリスナーからのお便りという形で問題を振ることから始まる。

シェリー 「こんにちわ。マーティーさんに質問です。映画の『男はつらいよ』のテーマを聞くたびに、どう聞いてもこれはロックから遠いように思えるのですが、あの曲はまさかロックにはならないですよね。どうなんですか?マーティーさん」
マーティー 「いや。まさにあの曲はロックだよ。男はつらいよは、ロックそのものじゃないですか」

こんな感じで、まず「男はつらいよ」のフレーズがギターで弾かれる。それでこのフレーズが、一体ロックの世界の中では、どの曲と同様の価値を持っているのかということが、マーティーによってフレーズが変奏されながら明らかになる。例えば『♪男はつらいよ渥美清』の場合は、マーティーのフレーズ分析によってすぐさま『Into The Arena/Michael Schenker』へと変換されて、その価値の同一性が証明されることになる。

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「Rock Meets the Rising Sun」において、マーティーが価値形態論的にいって等価性を発見した楽曲とは、次のようなものがある。

♪みずいろの雨/八神純子→Long Train Runnin'/The Doobie Brothers→White Room/Cream

なごり雪/イルカ → Dream On/Aerosmith

♪I'm Proud/華原朋美 →We're An American Band/Grand Funk Railroad

♪桃色吐息/高橋真梨子 →♪Move Over/Janis Joplin →♪ら・ら・ら大黒摩季

♪恋に落ちて/小林明子  → Let It Be/The Beatles  → Please Please Me/The Beatles

♪Pride/今井美樹→Roundabout/YES

涙そうそう夏川りみ → Tears In Heaven/Eric Clapton

八代亜紀マーティー・フリードマンのセッション。ここでは八代亜紀/雨の慕情が→Fly me to the Moon→舟唄、というように変換がなされていく。

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このように示されたチャートが、まさに価値形態論のチャートになっていることに着目すべしである。マーティー・フリードマンが鮮やかな手つきで見せてくれる分析的フレージングと批評的演奏は、まさにメタルギターによるトランスクリティークの存在を主張するものになるであろう。

言語の要素を、意味と価値の二つの側面から捉えることをマニフェストしたのはソシュールである。言語の機能とは、意味と価値で分離させて見ることができる。フレーズを構成する要素もやはり、意味と価値の側面から分析することができる。一つの体系の中で、意味において異なっているものは、しかし価値の観点からは、別の体系の要素と同一の機能を持ちうるのであり、そのような価値は、異なる体系間において交換されうる。この価値における同一性を発見することがまず、トランスクリティークが生じる磁場のための前提となっている。価値において同一の機能を担うものは交換可能である。それは変換可能であり、別の体系の中では新しい意味を帯びる。これは、異なる物が価値形態論の関係に置かれているのを見ることから始まる。トランスクリティークの前提になるものとは、常に価値形態論である。ソシュールが示したアスペクトも、言語を価値形態論によって見ることである。

マーティー・フリードマンの生きている実践とは、まさにエレキギターによるトランスクリティークの位相である。異なる体系としての音楽の間を交換し、新たな形態を生み出し変奏を続ける彼の批評的なフットワークとは、まさにこの超絶ギタリストの身体をもって生きられているトランスクリティークである。