タリバンの子供たち

1.
カンダハール』という映画の中に、アフガニスタンの神学校の中で学ぶ子供たちを描写しているシーンがある。

子供たちはコーランを朗読している。頭にターバンを巻きつけたたくさんの子供たちが、おのおののコーランに向かい合い、唱えながらしきりに頭を振っている。その中を監督するタリバンの教師が歩き回っている。子供を指名しては質問し、問題を子供に答えさせる。子供たちにとってコーランを読むとき、書物に向かって頭を振りながら、経文を声に出し、何度も繰り返して唱える様というのは、コーランをからだに叩き込む如きである。子供たちがコーランを学んでいる。しかしそれはただ学ぶという意味ではない。からだに経文を叩き込む。声に出して読むたびに頭を振りながら。それを暗い教室の中を一杯にした大勢の子供たちの群れが繰り返している。彼らにとってコーランを学ぶためには身体的な反復の労働苦を伴うのだ。

一人の子供が指名される。これは優秀な子供である。教師が問う。「剣とはなにか?」子供は自分の懐から剣を抜き、教師の目に向けて誓うように答える。「神の法を守る手段。泥棒の手や人殺しの首を切り落とす。」教師は納得して立ち去る。

次の子供を指名する。「カラシニコフとは?」子供は手元の小銃を手に取り教師の目を見て答える。「セミオートの小銃であり、戦場において、敵を殺傷しその数を減らす」

教師は一人、コーランに向けてからだを動かさない子供を見つける。「なぜ動かん?」「腰痛です」「朗読してみろ」子供はコーランに目をやるが歌のような呻きに近いものを口に出した。「違う。おまえが読んでみろ」隣の子供をさした。「神よ。悪魔からお守りください。偉大な神の名の下に」もう一度元の子供をさした。やはりコーランを読めずに歌のようなものだけを音にして口にした。「だめだ。なぜコーランが読めん。母親をよんでこい」その子供は教室から出された。

2.
このタリバン神学校のシーンには、テキストを読むという行為を巡る、極端な局面が見られる。しかしこのような人と書物=テキストを巡る極端で強迫的な関係のあり方とは、読む行為を巡る歴史の中にあった、ある典型的な拘束の形式を描き出している。テキストというのは歴史の一時期において、このような読まれ方をしたのだ。それは読む行為の歴史、そして人間にとって学習するという行為の歴史の中で忘れ去ることのできない、特定で極端な社会的体制がかつて存在したのだということを改めて理解させる。

3.
宗教の体制にとって原理的にまとめられた掟として象徴的に君臨することになるテキスト。それは聖書であり、コーランであり、仏典であるというように、それぞれの社会体制にとって歴史的に存在していた。

4.
聖典とは、「ちゃんと」読まれなくてはならないとされる。聖典を真に精神的な体験として読むとは、同時に身体的にもちゃんと読まれなければならないとされる義務と儀式的な形式が生まれる。ちゃんと読むためにはその形式が不可欠だと信じられる。それは宗教的な掟の第一義的な形式となる。宗教にとって教育体制とはそのようなものである時期を必ず通過する。子供たちがコーランに向けて頭を振り、そこにある文字列を身体に叩き込むようにして暗謡する。身体を動かす一つ一つの身振りが彼らの宗教的な情念の存在であり祈りであり、コーランへの絶対的な同一化を目指している。すなわちこれが、テキストを身体的に読むということの原型である。テキストを身体的に読むといわれたことの起源とは、宗教的な学習体制にあるのだ。もちろん聖書でも仏典でも、このような読まれ方をする必然性があった。そのような厳然ととした時代が確実にあった。そして今でも、宗教的な記憶にとって、それは痕跡として残っている。

5.
ここで教師が子供たちに向けて提示している価値とは、テキストをちゃんと読む、ということである。ちゃんと読んでいる子供と、ちゃんと読んでいない子供に、教師は基準を選別している。

6.
宗教的に掟とされ義務化された精神の体制。しかしここには最も原初的な意味での、エクリチュール−書かれたもの、を巡る堕落と退廃の体制があるのだ。

言葉とはどのようにして、その生成機能を奪われるのか?