ルサンチマンの処理を巡る

1.
Re=sentiment。ルサンチマンの意味とは、過去について再−感情化を施す心理学的な傾向にあたる。 ニーチェによれば、ルサンチマンを道徳法則として構築してしまったことが、キリスト教における最大の誤りである。ルサンチマン道徳の発生とは、それ自体はじめからの誤謬であったのだ。

キリスト教において、道徳に主体化される際の契機とされる条件とは、苦痛の再現前化にあたる。それは主体としての自己にとって、自分の過去の苦痛であるのか、あるいはそれが他人の苦痛であるのか(我が隣人の苦痛であるのか)というのが、道徳的な意識の基本条件になっている。

過去にあったはずだとされる、人間的な原−苦痛に対する抽象的な再現前化−遡ればその象徴的な起源のイコンは、十字架にかけられたキリストのイメージである−キリスト教的な自己意識の構造を基礎付けている。

2.
ルサンチマンとは大方において日本語で怨恨感情ということで翻訳され通っている。しかし怨恨感情といっても、それは単に他人を責め非難するスタイルだけのことを指さない。それは自分を罪あるものとして責める意識、いわゆる良心的な意識として通ってしまうものも、やはりそれはルサンチマンとしては同一の構造にあるものであり、単に自己を責めることとは、その裏返しに過ぎないことだと考えられる。この自己を責める意識こそが、責任を抱え込むスタイルこそが、キリスト教の発明した根本的な疚しさであり、キリスト教的な詐欺行為のトリックなのだと考えられる。

他人を責めることと、自分を責めることとは、構造としては同一のメカニズムにあたると考えられる。だからそれはいつでも反転しうる。他人の責任をせめていたものが、突然自分のせいだといい始めることもあるし、その逆もありうる。この仕組みを一種のトリックとして活用したのが、キリスト教的な啓蒙の構造であった。

この、自分のせい=他人のせい、の変換式的な構造体は、その構造を安定させるための止揚しうる第三項をやがて発明した。それは「禁欲主義的理想」というイデアである。
私も汝もともに、平等に、一切の特権性もなく、この発明された禁欲主義的理想の前では、すべて共通に跪きうる。

3.
ニーチェをスピノチズムの発展形態として捉えることは可能か? 『生に対する歴史の利害』という論文は(『反時代的考察』所収)、ニーチェにおける時間観そして歴史観を決定づけている。 ニーチェはやがて「ルサンチマン」という概念の発見へと至ることになる。

人間はどのようにしてルサンチマンを克服することができるのか?またはそれから逃れられるのか?人間の精神にとって、最大の病であり、最も深刻な病とは、このルサンチマンの処理の問題に基づくのだ。

過去の解釈が生を蝕む。それがルサンチマンの問題系である。今ここの生、そして未来の生とは、時間解釈と世界解釈の中に生じる損傷の中で、病にかかる。息が絶えてしまう。肯定的なものの実在。それは生を肯定する力。

4.
スピノザからニーチェへの発展。それはルサンチマンの克服の方法に現れていると見ることができるだろう。 それは、『起きてしまった物事とはすべて必然的である』から『起きてしまった物事とはすべて永遠回帰する』への転回、進化である。

スピノザはどのようにしてルサンチマンを生の前進の中から逸らしたのだろうか。それは、起こってしまった物事とはすべて必然的であったのだと思うことによってである。そのようにして運命を神的な宿命として甘受することによって、ルサンチマンの発生を退けようとした。しかしスピノザのこの態度さえも欺瞞であるには変わりないのではないか。それはニーチェ的な、素朴かつ根本的な問いである。

ニーチェの考えはそれとは違う。もっとラディカルである。そしてニーチェにとってラディカルであるとは、力動性にも満ちているということである。ニーチェにとって、起きてしまった物事としての時間的損傷とは、生産的な忘却によって、積極的にルサンチマンを回避させることになるのだ。生産的な忘却、積極的な忘却、それはやがて、プルースト、そしてドゥルーズによって、逃走の線として認識が捉え直されるようになるものである。