情動の技術

エチカの第四部『人間の隷属あるいは感情の力について』で、スピノザの試みている作業とは何だろうか。

感情を制御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとになくて運命の権利のもとにあり、自らの善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部でこの原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした。しかしこれを始める前にあらかじめ完全性と不完全性、および善と悪について少しく語ってみたい。

ルサンチマンの発生を、生の意識的な前進の中から逸らすこと。スピノザはおそらく、ルサンチマンを回避するための方法論について最初に意識的な方法論を作ろうとしていたといえるのだ。それは、数多の神学者や僧侶のように、犠牲及び自己否定の意識によってルサンチマンの情念を無かったものにするというのとは異なっていた。

神学者たちと僧侶たちの今までの試みとは、自然の物理的な法則性と力学を捉え損なった結果、欺瞞的意識の置き換えにすぎない。それらの実質とは超越的なものの想像性=理念性に頼る、生に対する圧政だったのだ。

スピノザにとって、あくまでも物理的な力学構成の中から、生の病、生の毒としてのルサンチマンの発生を解毒することが方法論的に求められた。ルサンチマンの発生を逸らすことの方法とは、エチカの中で次のような記述に見ることができる。

第四部 人間の隷属あるいは感情の力について

公理 自然の中にはそれよりももっと有力で強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な物が常に存在する。

定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。

定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。

定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってではなくては抑制されることも除去されることもできない。

付録 第三二項
人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果たしたこと、我々の能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。

そしてスピノザの原則とはこのようなものである。

第一部 神について
定理三三 物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
スピノザはある心的な作業を提案しているのだ。それは心的な作業による内在的な力学の組み替えである。力学には逆らわぬこと。それがスピノザの根本的な提案である。そして主要なポイントとは、精神の力では物理的な力学には逆らえぬということ。精神自体は無能力であるのだが、それが理性によって、客観に在る法則性の認識と合致した時にのみ、精神はよく働き出すのだという事実性である。

そしてニーチェによる次のような記述を見てみよう。

ルサンチマンの感情から免れていること、ルサンチマンの感情を知り尽くしていること−−この点でも結局私がどれだけ自分の長い病気のおかげを蒙っているかわからない!この問題は必ずしも簡単ではない。力のほうからも、弱さのほうからも、この問題を体験していなければならない。病気だとか衰弱だとかいう状態に何か文句をつけなければならないとすれば、それは人間の持っている本来の治癒本能、つまり防衛と武装の本能が脆弱になるということである。何一つ厄介払いできない、何一つ片付けることができない、何一つ突っ放すことができない、−−あらゆるものに傷つけられる、人間や事柄がうるさくつきまとってくる、いろんな体験があまりに深く喰いこむ、追想が膿をもった生傷になる。こうなると、病気とは一種のルサンチマンそのものである。−−これに対して病人はただ一つだけ偉大な治療法を持っている−−私はそれをロシア的宿命論と呼ぶ。行軍があまりに辛くなったロシアの兵士が、ついには雪の中に身を横たえる場合の、あの無抵抗の宿命論である。何物ももう受け取らず、受け付けず、取り入れない−−およそもう反応ということをしない・・・。かならずしも平然として死んでゆくというだけではなく、生命がもっとも危険に瀕したときに生命を持ちこたえるものとしての、この宿命論の偉大な理性は、新陳代謝を低減すること、それを緩慢にすることであり、一種の冬眠への意志であるといえる。

「ロシア的宿命論」が私の場合に現れたのは、私がほとんど堪えきれないような状態や場所や住居や交際がひとたび偶然によって与えられた以上は、何年間もそれを執拗に守り抜いたそのときであった。−−それらを変えること、変えうるものと感じることよりも、−−それらに反抗するよりも、むしろそのほうがましだった・・・。この宿命論をかきみだし、私をむりやりに目醒ますことに、私は当時死ぬほどの悪意を感じた。−事実またいつ死ぬかもわからないほど危険な状態に、私はあったのだ。−−自己自身を一個の運命さながらに受け取り、「違ったように」は自己を欲しないこと−−ああした状態にあっては、これこそ偉大な理性そのものなのだ。
(『この人を見よ』)