スピノザとニーチェ

1.
生前はまだその価値が埋もれていた著作家スピノザの再評価、スピノザルネッサンスとは、歴史の中で何度か繰り返し現れている。18世紀にドイツ人においてスピノザの価値が発見され充実したスピノザ研究をもたれた。ゲーテによるスピノザ研究、スピノザ礼賛があった。スピノザ書簡集の価値を発見し宣伝したのはゲーテであった。ゲーテは時期的にはカントと活動期間が重なっている。つまり一方ではゲーテやヘルダーによるスピノザ主義があった傍らに、カントはスピノザ主義的な傾向に対して批判的な思考を構築していたのだといえる。カントの周辺にはスピノザ主義がやはり溢れていたのだ。あるいは逆に当時支配力を持ちつつあったカント主義へのアンチテーゼとしてゲーテらのスピノザ賞賛、自然主義的神性があったのだろう。それに対してカントが勃興を企てた学とは「人間学」なのである。19世紀を準備することになる人間学的志向の基礎的な布石がカントによって敷かれた。

カントが直接的に批判の対象としていたものとはデヴィッド・ヒュームである。一方ではヒュームの懐疑論を乗り越えることを宣言するもの、もう一方ではカントの批判とはライプニッツ、ヴォルフ学派の独断論=必然主義に向かった。ヒュームとスピノザの関係とはどのようなものに当たるだろうか。スピノザが必然性によって宿命論の中にまだあったのに対し、ヒュームが解体を施したのは徹底的に懐疑の方法によって、それら原因結果の連結の列が実は偶然的であったことを明かすことにあった。あらかじめ必然的で運命的な連鎖というよりも、事後的で経験的に鎖の列が繋がっていることを示そうとしたものだ。それはジョン・ロックの論考に引き続く、18世紀におけるイギリス経験論の理論的な確定の過程に歴史的にはあたっている。

スピノザルネッサンスを20世紀において導入したのはアルチュセールであった。アルチュセールにとって構造的因果性の概念はスピノザ主義的なものである。また理論的アンチヒューマニズムの導入も、人間中心主義的な世界観からその頭(目的因)を切り取る、全体構造をアセファル(無頭的なもの)として捉え直す、そして人間的要因というよりも自然的要因によって物事を説明しようとした点において、アルチュセールスピノザ主義であった。アルチュセールの段階になるとスピノザ主義を導入した動機は明確である。ヘーゲル主義を克服するためにそこではスピノザが呼び出されたのだ。

3.
スピノザの哲学に対して批判的であったもので最も重要なものとは実はニーチェの存在である。ニーチェスピノザに対してたびたび扱下ろした発言をしている。しかし実はニーチェの哲学とは多くの意味でスピノザと似通っているのだ。カント及びカント的なものの実在に対して対立しているというところも共通している。スピノザに同じく、純粋な認識の力によって同時に身体的なものの力能性が立ち上がるポイントを見ようとしている点においてもニーチェの認識者の概念とは動機を同じくする。

ニーチェスピノザにおいて嫌ったものとは、スピノザにおける自己保存の観念であった。ニーチェが語りたがったものとは、自己保存の観念よりも、力への意志と超人への意志によって「没落する」ことを選びとった者の観念であり肯定であった。

ニーチェが生涯において長く闘い続けた対象とはニヒリズムの存在である。ニヒリズムとは変幻自在な実在である。それは姿かたちを変えては、常に人間社会のシステムに棲む着く。ニヒリズムとは生からその力能性を去勢し奪い去り、いつもなし崩しにしてしまうウィルスの存在である。ニヒリズムというウィルスの存在にはそれ自体で歴史があるものだ。ニヒリズムとは常に人間社会の歴史の中で、なんらかの形で勝利し続けているものなのだ。そして我々は、ニヒリズムの勝利の存在が、もうあまりにも身近で見慣れているものなので、普段の習慣的な感覚としてはその事情の不思議さに気づかないほどのものなのである。

4.
ドゥルーズは、こうしたニヒリズムの勝利の諸段階が、人間の歴史の場合どうなっているかについて、ニーチェの著述に即して明瞭なカテゴリー表を作って示している。

ニヒリズムの諸段階  ニヒリズムの発展階梯

1 怨恨。(ルサンチマン)→おまえが悪い、おまえのせいだ・・・。投射的な非難と不平。
2 疚しい良心。(mauvai conscience)→私が悪い、私のせいだ・・・。内向投射のモメント。
3 禁欲主義的理想。→昇華のモメント。
4 神の死。→回収のモメント。
5 最後の人間と、滅びようと望む人間。→終極のモメント。

スピノザが考えたのは、身体を能動と受動の二つのモメントから力能性として捉えることであった。しかし人間的な諸力の在り様として、ドゥルーズはそこに三つ目のモメントを付け加えた。能動、受動に並ぶ三つ目の力のモメントとは反動である。ドゥルーズはそれをニーチェのテキストから読み込んできた。人間的な諸力とは、能動と受動と反動の三つに分類して見ることができる。

5.
反動的な諸力とは何処で生じるのだろうか。反動性とはそれ自体ニヒリズムの所産である。

ニーチェが面白いのは、彼は単にキリスト教道徳に対立していただけではなく、表向きには科学的な理由からキリスト教と対立したと見做されていたダーウィン的な世界観にも対立していた点であるのだ。

ハイデガーニーチェ』より
 ニーチェダーウィンの影響を受けた同世代の生物学や生命論のように生の本質を、《自己保存》(生存競争)と見たのではなく、おのれを超え出る昂揚と見なしている。したがって生の条件としての価値とは、生の昂揚を支え促進し喚起するところのものとして思惟されなければならない。生すなわち存在者の全体を昂揚させるものだけが価値をもつ、−−もっと厳密に言えば、それのみが価値なのである。