論理的なものと経験的なもの

カントというのはキリスト教社会の歴史では随分と微妙なポジションにあたっている。カントが反対しているものとは、それまでのキリスト教社会が背負ってきた、ある精神的体質である。キリスト教社会が担ってきた特徴的な思考の誤謬体質について根本的な転回を企てるものであった。しかし実際にはカントの性質というのは、あくまでも中庸的なポジションを確保するものである。だから彼は、平和裏に非暴力に物事を啓蒙しようというものなので、カントの論理体系とはキリスト教の基本とはうまく妥協し共存、共立が為されることによって安定を保つ構造になっている。それはカント自身の表面上の人柄によるものであろう。暴力的な諍いは極力嫌うが日常生活において散歩の時間から靴下の清潔さまで神経質に細部に拘る癖を持っている。

しかしキリスト教の体系が転覆する為の基礎を撒いた人というのは明らかにカントである。それ以外ではない。そもそも今ある科学的思考というのがカントを大きな結節点にして中継されてきたものである。キリスト教社会を転覆させたものとは実質的にはマルクスよりもはるかにカントに負う功績が大きい。それは、後にマルクス主義の陰で見失われることになるような、思考能力の超越論的な作用を発明していた。ダーウィンの登場もフロイトの登場も、カントの思考を前提にしてこそ彼らは出てこれたのだ。

近代史の転回とは、そういう意味ではマルクスとは殆ど関係ない。実質的な転回とはカントの功績である。その後マルクス主義が再生産することになった、革命の歴史におけるキリスト教型茶番劇の焼き直しを見れば、マルクス主義自体は思考のシステムにとって特に切断を入れたものではなかったことは明らかである。決定的な思考システムの転回とはカントの中にあったものだ。

カントがまず着手した作業とは、理性的なものを経験的なものから分離することである。キリスト教の思考にとっては歴史的に、経験的なものが幅を利かせる割合は大きく、権力を占めやすい。まずカントが対峙し批判の対象としたのは、それまでイギリス経験論として確立されていた思考の流れであり、ロックとヒュームの経験論である。経験と理性を分離して考えることができるとマニフェストすることとは、哲学の流れにおいて決定的な転換を果たした。カントが、理性の能力として純粋化して抽出したのは、論理的な推測の能力として対象に近づいていける力である。

カントは、対象のことを「物自体」として想定している。そして、物自体の存在については人間は不可知である。ただ現実に顕れて来る現象を通じてのみ、物がどんな働きをするのかという機能については我々は知ることができる。しかし、物の正体というのは神の正体にも似て最後までよくわからない、また特に知る必要もない、それは不可知であるのだから。しかしその現象的な顕れについては、人は、論理的に、法則的に、経験的に、確実な把握をもつことができる。認識の可能性である。

認識とは大きく分けて、経験的認識と理性的認識(論理的で推論的なもの)の二つに分かれる。経験的なものというのは、私にとって実感されているもの、実感があるがゆえにリアルなものといった、体験の実体性というものも含んでいる。キリスト教にとって、対象に近づいていくやり方とは、経験的な同一化を強いる傾向が強かったのだ。つまり人の主張においても、それがかの人にとって経験されたものでなければ、価値の低いものとされた。主張の価値を左右するものとは、その論理的内容の如何ではなく、如何にそれがかの当人にとって真摯に経験されたものであるのかという、労苦的な内容(まさしく労働価値的なもの)が、真偽の基準にされてしまったのだ。

しかしこれは、まやかしの作用である。言説の真偽を決めるものとは、主張に含まれた労苦の内容ではなく、純粋に論理的な真偽であるはずなのだから。カントは、歴史的なキリスト教権力に特有の、認識のまやかし作用に近づいていく。個別的に経験されたものを飛び越えることによって、むしろ万人に妥当する普遍的な物事の構造を論理的に見れる力、これが超越論的な理性の能力であると考えられるのである。

それでは経験の正当性を保証し担保にしている実体とは何なのか?キリストの特権的な経験なのか?(この世界の苦しみを代理、代弁するものとしての。)経験というのは別に神聖なものではなく、本当は外から論理的に分析して解体できるものではないのか。経験とは、出来事の真実における内面性のように思い込まれている。経験に他人と同様に従属することをもって、神聖であるとか、あるいは人間的であるとか、義務であるとかと思い込まれているだけのことではないのか。(美を個人的な実感の神聖で不可侵な在り方、感じ方に限定させて示そうとする考え方も、そういう意味で、経験論における経験されたものの真理という構造に属している。)

ここで「経験」というのを「労働」と言い換えることもできる。経験の中に真理が宿るという考え方は、そのまま労働の中に、更に言えば労働者をやることの中に真理が宿るという考え方に繋がるのだ。特にキリスト教の宗教的風土から、または共産主義の環境にあっても、こういった「経験主義」というのはよく跋扈し、人の目を欺く効果があった。(元来労働主義はキリスト教のものであり特にプロテスタントの勤勉なる発想であった。)

古典経済学、マルクス経済学として展開した労働価値説の意味というのも、こういったイデオロギーを背景に見ることができる。経験(即ち労働)を神聖化することとは、キリスト教的傾向のある種宿命であった。しかし、経験主義的な強迫によって隠蔽される思考の裏をこそ見抜くべきである。

本当は、経験の中に信じられているようなイデアがあるとも考えにくい。そして労働することの中にもイデアなどない。また、何も「書を捨てて町に出て」、他人達と交わる中にイデアが存在しているわけでもないのだ。体験の中に実体的なイデアが所有されるというわけでは決してない。実感とは実体ではない。なりえない。同様に検証が不可能なあらゆる思い込みとは実体ではない。

カントはむしろ人間にとってイデアの獲得とは、純粋に論理的な思考能力、即ち推論によって正しく物を言い当てる能力の中にあると考えるものだ。カントが唱えたのは、経験と論理的理性とは、分離して考えることができるということである。論理的に正確な推論を成功させることによって、自分がそれを経験していなくとも、対象の認識とは言い当てることができる。何も宗教的な神秘経験や修行を媒介しないでも、もちろん労働を媒介しないでも(これらはみな宗教における「密教」的な性質の構造にあたっている。逆にカントの論理的な啓蒙性とは宗教的真理の秘教性を廃しようと導くものである。カントの立場とはすぐれて顕教的で明朗なものである。)、真理とは論理能力の正しい使用によって到達できるものであると考えられるのだ。

理性には理性の純粋な自己展開能力がある。それは個人的経験の有限性を飛び越えて超越論的な次元に立って、共通の構造を解明することができる。経験の有限性を乗り越える思考の能力とは即ち先験的な能力である。理性の展開能力とは、いかなる与えられた経験内容の個別性、偶然性に関わらず、誰もが等しく論理的な展開の能力によって到達されうる、共通の構造であり共通の認識である。経験の個別性、偶然性に振り回されない、限定されない、理性の論理的展開によって、誰もが共通に到達できるイデアが真のイデアであると考えられる。

カントによって目指された人間にとって共通の真理の到達というのは、個別的な経験論の絶対化ではなく、また同一の経験を他人に強要することでもなく、万人にとって、潜在的にはあらかじめ共有されると見なされるような、理性の能力の超越論的な使用であるのだ。それはあらゆる個別的な経験内容(そして労働内容)に関わりなくすべての人に共通であるような、論理的な構造の実在である。

カントによって示されたマニフェストとは、それまでキリスト教社会の持っていた宗教的な真理の修行的習得の思い込みに対して、決定的に覆すものとなった。単に宗教や哲学の真理という意味だけではなくて、あらゆる物事の思い込みを引っくり返せるだけの力があったのだ。