普遍性と全体的安定性の逆説

カント型普遍性の構造に対して、クリスティーナ・アギレラ的な抵抗があるのだとすれば、アギレラマニフェストに共感を示したミュージシャンたちがいる。それが実は、ガンズ・アンド・ローゼズであったのだ。07年の幕張でガンズのライブを見たとき、ガンズのギタリストの二人が、アギレラのBeautifulを演奏するのを、僕も目撃した。リチャード・フォータスとロビン・フィンクである。この他にはギターだけのアンサンブルで、X−JapanのEndless Rainも弾いていた。あとはピアノのソロでストーンズのアンジーを延々と弾いていたものだった。リチャード・フォータスというのは、殆ど顔がロン・ウッドに似ているというだけで、アクセルによって採用されたのではないかと思えるような、ロックの史的なシンクロニシティを感じさせるギタリストである。(ロンウッドの渋さと凄さが分かるようになってロック聞きというのは一人前なのである!・・・ん?でもこれも趣味判断か)彼らが彼らの流儀でもって、ステージ上でBeautifulを反復しているのだ。アギレラ的なものに対するレスペクトを示しながら。

ここに一つの構造を見ることができるだろう。社会の全体性について感性的システムの構造から見たとき、論理的なもの或いは言葉の原理的な支配を演繹するものの欲望と、それに対してあらゆる論理及び言葉に対して自分は還元されないと抵抗するものたちとの対立の構造から、時代における社会の全体性が成立しているということである。社会の安定性というのも実はそこの対立から成立している。それはカントの思考の必須事項でいえば、カテゴリーの思考を巡る現象である。しかし実際には、カテゴリー化に対して抵抗する立場が横に伝染していくことによって、結果的に社会の全体的な安定性がうまく調節されている。

カントは、アリストテレスの思考からカテゴリー論を救出した。カントの思考にとって、カテゴリーとは必然的なものであり、それなしには論理的かつ体系的な思考は成り立たないようにできている。しかしカテゴリー化が支配的に立つことによって、存在の暴力的回収が為されるような事態になるというのなら、カントは、カテゴリーとは、あってかつないものなのだというように二律背反を立てることによって、そこで概念によって論理的に思考するものの能力を守るものである。

人間はカテゴリーに反対することができるだろうか。カテゴリーが思考の論理的な条件であることを、カントは何重にも厳重に証明して示している。しかし衆生の立場とは、実感的な自由の在り方として、自らがカテゴリー化されて檻に入れられて見られることを何処までも避けて嫌うものである。カテゴリーによって上から目線で、大衆の条件を計量して示そうとする知識人的な目線の立場と、観念的な支配のにおいを嗅ぎ分けて現実的なデモンストレーションの波で連帯しようとする、感覚的な大衆性(マルチチュード)、市民性との二項対立である。

しかし、カントは別に、感じることに制限せよとか謹みを持てとかそんな野暮なことを言っているわけではないのだ。人がどう感じるかなんてことに制限も支配もかけられるわけがない。人はただただ自由の中に放り出されているだけだ。ただ、どのように人が感じようと、それは人間の身体と感性が物理的に持つ構造の原理的な必然性からは、逃れられるはずがないということを、厳重に証明しようとしているのだ。人間について正確な認識を持つこととは、まず人間の限界的な条件から遡行して、論理的に捉えられなければならないのだから。カントはまず、理性の限界、感性の限界について、論理的条件として明らかにするところから思考をはじめているのだ。

ということは、アギレラマニフェストとは、一つの妄念の在り方のパターンなのだろうか。それも広く共有されうる妄念のスタイルである。アギレラの意見の持ち方にパターンを見るとき、やはりここにも逆説的に、カテゴリーの実在が忍び込んでいるのを見ることができる。社会の全体性を見たとき、やはりその多くの層においては、アギレラ的な意見を持つものであり、アギレラ的なシンボルがあることによって、全体性とは安定するのだ。アギレラの表出とは必然的なものである。そしていち早くアギレラマニフェストに対して、ガンズが共闘を示したように、主観の立場からの絶対的な抵抗権の実在こそが、社会的にはより多くの共感と自由の感覚をもたらしている。それが存在のスタイルとして、人間にとってどうしても必要不可避な妄念という意味で宗教的だというのなら、その理由も了解できる。

これは先日あった村上春樹エルサレム賞マニフェストにも照合して考えることができる。壁の言い分がどんなに正しくても、壁にぶつかって壊れる卵の立場のほうを、文学は取るのだという。論理的思考の正確さとは、壁の堅牢さをこそ前提にして作る。しかし現実には、壁では人間は住めない。しかしかといって、壁の存在によって雨風が凌げない、生活を可能にする暖かさを区切って確保できない空間でも、現代的な人間の生活というのは成立しないだろう。壁の適当なる硬さ、堅牢さというのは、人間的生活にとって、また別の方面からは不可避である。

アギレラの歌は結果的な共感を呼びさますものである。カントの論理的な整合性よりも、結果的にはアギレラの開き直りのほうが数としては、大衆的支持としては多く強い。そしてこれが現実的な社会の構造であり社会の安定性である。そこでは整合性の壁に対して、あえて不合理で開き直るところにアギレラがその自分の名前で示している通りに、社会におけるキリスト教的なものの根強さというものが示されている。そして凡庸な事実とは数的にはいつもそっちのほうが多いということなのだ。論理性の如何に関わらず。

論理的なものを超越せざる得ないからそれは宗教的と呼ばれたりする。それは、卵の柔らかさの立場から、論理的なものの堅牢さを、時に超越しワープするときに、人間的に必ず呼び出される。カントの論理体系が普遍的なら、それと同程度に、あるいはそれを少し上回る位に現実には、いつもクリスティーナ的なものが普遍的なのだ。それは時代に応じてその呼び名さえも一定しないのだが。特定の固有名さえ一定しない、それはクリスティーナという女の子の実在である。しかしその位に社会にも時代にもあまねくその存在とは偏在している。そしてクリスティーナの信仰とは次のような章句に纏め上げることができる。

I am beautiful no matter what they say
Words can't bring me down
I am beautiful in every single way
Yes, words can't bring me down
So don't you bring me down today

(ここの"today"についてアギレラは"too late"とかけてるね)