クリスティーナ・アギレラの『Beautiful』

カントは、美しさを感じる心というのは主観ではないと言った。美を喜ぶ心に、自己の主観的自我だけが関係するような個人的条件を見出すことはできないと強調したわけだが、それはどのようなことを言っていたと考えられるのだろうか。誰が何と言おうと私がこれを美しいと思っているのだからこれは美しいのだと主張することは可能か?ということが問われているのだ。カントははっきりと、論理的な確信をもって、それは可能ではないと答えていたわけだ。

美とは感性的次元にある事柄で、趣味の判断の領域に属している。カントは、趣味判断には普遍性は可能なのかという問いを立てている。これは美しいこれは美しくないという言い方が個々人の感じ方によって異なるということは、実際にあることだ。しかしカントは、それでもその感性的判断の根底には、個人の自由にはならない構造が必ず潜んでいるということを、殊更に強調しようとしている。

感じることの自由を認めないなんて、それはリベラルじゃないではないかと、今ではこういった主張は簡単に退けられてしまうことも多い。実際カントの説を根拠に、感性の自由に制限がかけられると信じた人々の運動というのは、歴史の中で碌な顛末にはならなかった。悲劇か喜劇で終わっている。しかし、それでもカント本人は、美を感じるということの感性的メカニズムには、個人の決して自由にはならない大きな客観性の手が共通感覚として働いているのだと見ることを手放さなかった。

カントの論理を追っていけば、美を感じる心は、たとえそれがマイナーで誰にも気づかれないところで一人で発見した美であったとしても、それが本当ならば、理由について普遍的な証明が演繹して可能だということになる。いや、別にそれが普遍的でなくても、何故その人がそれを美と感じたかという現象には、客観的な理由は必ず説明可能だと考えられるのだ。そして解明された理由に基づいて、関係ない第三者も何がそこで美の感性として機能しているのかを外から知ることができる。あらゆる美的体験は人類的に共通するモジュールによって還元可能であるということになる。自分が主観でそれをどう思っているか否かに関わりなく。

美は、証明とかそういう野暮な弁舌とは関係ない、ただそれは感じるか否かという、ただそれだけなのだとそこで強く押し止まる意見はあるしそれはそれで必然的に生じる防衛の体制でもある。しかし、美とは決して個人の自由になるものではなく、それ自体客観的な事物の条件に属しているし、美を感じる個人の心というのも、それが人間的なものであるのは違いないとして、必ずそう感じる心のメカニズムには、何か対象と人間の感官の間の客観的で共通なメカニズムが所有されていることが証明できるのだと、論理的にはすべての美の現象について、あらかじめ先験的に前提されているのだということになる。

美とは、個の自由になるものではない。やっぱりこれは客観的に冷めた目で事象の渦中からは離れて考え直してみれば、確かにその通りかもしれないというのは、納得できるのではないだろうか。どんなに個人の主観的自由の絶対性に拘りたいセンスの持ち主であっても。それが万人の承認しうるところの客観法則にまで敷衍されると抵抗があるのかもしれないが、美というのが、それを持とうとする人の心にとって、大抵の場合は他人の承認を、たとえマイナーで秘密裏なあり方であっても求めようとしているものであることに気づくとき、美とは決して個人の領域ではありえず、どんなに少なくマイナーな人数であっても、それが共感する他者の心を求めるものであることには、気づかれるのではなかろうか。カントの場合は、それが最初はマイナーな共同性の中の共有物であっても、それがよく分析されれば、やっぱり普遍的な感官の構造から演繹されて理由を解明できるものだとするものである。

しかし、美にとってマイナーな同意を求めようとする心とは何なのだろうか、主観の最終的な開き直り、主観の最終的な立て篭もりであり抵抗戦争の根拠とは、私はそれが美しいと、信じることである。たとえ全世界と対立しても、私はそれが美しいと信じることによって抵抗して立つという、現代的な頼もしいマニフェストが、現在のアメリカ人ボーカリスト、小柄でありながらも逞しい声を響かせてくれる、クリスティーナ・アギレラによって、投じられているのだ。さて我々もその彼女の勇姿を見てみよう。